第三十八話 自分勝手


 丁寧な筆致で書かれた母の名に、俺は一度手紙から視線を上げた。その先には、もう俺の存在を忘れた様子で折り紙に興じる母の姿があった。


 その姿に、心臓を掴まれたみたいな苦しさを覚える。母さんは俺を覚えていない。今も、たまに顔を見せる見ず知らずの他人だと思われてる。それを俺は仕方のないことだとずっと思ってきた。理不尽だなんて、思わないようにしてきた。


 手紙を破り捨てたくなる衝動にさいなまれながら、続きに目を向ける。


『貴君はすでに知っているかもしれないが、初めから記そう。貴君の母、春高はるたか津根つねは貴君を産む前、とある会社で秘書をしていた。優秀な働きぶりだったそうだ。しかしある日、男にだまされ貴君をはらむこととなる。男は敵対会社の社員だった。男は春高津根から会社の情報を引き出すために近寄り、そして彼女を捨てた。孕ませた責任は、一切取ろうとせずに』


 始めて聴く話だった。父親のことは、母が喋りたくない様子を見せていたので俺から尋ねることはなかった。だから、俺は父親の名前すら知らない。


 戸籍抄本を見れば分かるだろうが、あえて見ないようにしていた。知ってしまえば、もっと聞きたくなると思ったから。それは母親を傷つけることに繋がる。そうやっているうちに母さんは認知症を発症してしまったのだ。


『貴君が復讐を望むなら、私は喜んで彼らの破滅に必要な情報を余すところなく調べ尽くそう。だが、恐らく貴君は望むまい。だからそれは一先ず置いておいて、話を続けることにする。

 春高津根は男に裏切られ、会社からも情報を洩らした罪人として糾弾きゅうだんされた。そうしてこの世に絶望した彼女は、生まれたばかりの貴君を抱いて杉岡神社を訪れる。そこで願ったのだ。「どうか私を幸せにしてくださいませ。全ての不幸は元凶たるこの赤子に。この赤子は――柘弦つづるは、全ての災厄を身にまとって、代わりに私へ幸福を運ぶのです」と』


 頭の中に、見てきたような光景が浮かぶ。日の暮れかけた薄暗い神社。やしろの前にひざまずく、もう決して若くはない、狂乱に瞳を輝かせる女性の背中が。掲げる両腕の中には、己の運命も知らず愚鈍ぐどんな眠りを決め込む赤子がいる。


 それは脳みそが描いた幻想だ。まさか俺がその時のことを覚えているわけがない。ただ、記された母さんの口調が、昔聴いたそのままだったから。


 なぜ柳楽が母さんの口調を知っているのかということは、もう考えるだけ無駄だろう。


『そうして願いは聞き届けられた。それほどに強い願いだったのだ。杉岡神社の英雄が狂ったのは、彼女の願いのためだ。この罪深い願いを叶えてしまった自責で、英雄は己を失った。貴君の今までの全ての苦労、杉岡神社のために人生を狂わせた全ての人の苦しみ、その原因を作ったのは今目の前に居るであろう彼女なのだ。貴君を取引先に連れて行っていたのも、恐らくその体質を利用して自分に都合の良い結果を導きたかったからだろう――』


 そこまで読んで、俺は天を仰いだ。視界に広がるのは染み一つない真っ白で清潔な天井。しかしちょっと窓の外に目を向ければ、暴雨の可能性を隠して着々と自分の支配領域を広げていく鉄屑てつくずみたいな汚い色の雲が並んでいる。


 手紙には、一行挟んでまだ続きがあった。しかしそれを読む気になれない。俺は幽鬼のような重苦しい緩慢かんまんな動きで立ち上がり、母さんの前に立った。


 俺の不幸体質の原因。それが母さんだとは、俺はこれっぽっちも思っていなかったのだ。


 母さんの願いのせいで、俺はいままで苦しい人生を送らなくちゃいけなかった。


 その上この人の願いは俺だけじゃなく、罪なき英雄を狂わせた。山尾先生が死んだ遠因でもある。きっと、母さんの願いのせいで苦しんだ人間はもっといっぱいいるだろう。


 なのに母さんは、全て忘れてこうしてぼんやり生きている。俺を犠牲にして今まで順風満帆な人生を歩んだ。


 俺は自分の中に、黒々としたものが生まれるのを感じた。


 母さんは俺に気づいていない。ずっと手元に集中している。俺は母さんの枯れ木のようになった首筋に手を伸ばそうとして、母さんが何を折っているのか、それを見てしまった。


 折った所を広げて逆に折り返し、それは完成する。母さんはそれを満足げに撫でて、壊れ物のように慎重に、自分のかたわらに置いた。


 布団の上にそっと飾られたのは、茶色の折り紙で折られた不恰好ぶかっこうなトリケラトプスだった。


「…………柳楽、お前は知らない。母さんは不器用だったんだ」


 口から、言葉が勝手に出た。母さんがさすがに俺に気づいて不思議そうに顔を見上げてくる。俺はその視線から逃げるようにうつむき、誰にともなく喉から音をつむぎ始める。


「折り紙なんかめっぽう下手くそで。でも、俺が幼稚園生の時、恐竜を折ってくれってせがんだことがあって、それから折り紙の練習を始めた」


 眼球が熱を持ち始めた。目玉が押し出されるようで、俺は知らず眉間に力を籠める。


「俺は知ってる。母さんは何度も失敗しながら、俺のために下手くそなトリケラトプスを折ってくれた。それから毎年、俺が小学生の間は誕生日のたびに、折り紙で動物や恐竜を折ってくれたんだっ」


 まつ毛の堤防ていぼうは決壊し、ついに涙がこぼれ始めた。体温よりずっと熱い液体が床に向かって次々と落ちていく。


「――――っ。俺には分からないよ。柳楽、お前は情報屋なんだろう? どんな知識も与えてくれる。だったら教えてくれ。どうやったら、優しくしてくれた人を憎める。どうして愛情を疑える。俺は、ずっと信じてきたんだ。諦めたふりしながら、それでも心のどこかでずっと、変わらず、人の優しさを信じてきた。今更憎めない。そんなことできない。だって、俺は俺の頭を撫でてくれたこの人の悲しそうな笑顔を、何度だって思い出してしまうんだ!」


 もはや言葉は嗚咽おえつに近かった。誰も意味を理解しない、誰にも届かない慟哭どうこく。ただただ溢れる涙で床を濡らすだけの機構になり果てる。


 きっと、憎んでしまった方が楽なんだろう。よくもと叫んで、怒鳴って、抵抗できないあの老体が腫れ上がるまで殴って。そうやって発散させてしまえば一瞬だ。けれど、俺にはそれができそうになかった。だってそうしてしまえば、憎んでしまえば、俺は自己嫌悪で自分の喉をっ切ってしまいそうだから。


 勝政に語ったことと同じなのだ。俺は、相手が俺をどう思って、心の底にどんな醜さを隠していたとしても。そのどこかに真実の優しさが潜んでいることを信じてやまない。悪意が全部じゃないって思いたい。


 それはひとえに、俺が嬉しいと感じたことを、抱いた感謝を嘘にしたくないからだったに違いない。そういう自分勝手で、相手の感情をかえりみない主張。


「……それでも、それでも俺は…………誰も、恨みたくなんかないんだよ」


 誰も彼もが自分勝手なら、俺も勝手に願うだけだ。どんな人間も、悪意だけで構成されてるわけじゃないって。


「どこか痛いのーぉ?」


 うつむいたままの俺へ母さんが、俺の背をさすりながら顔を覗き込んでくる。涙で揺らいだ視界に昔と変わらないその瞳を見とめた俺は、唇を噛んでさらに泣いた。



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