第三十九話 惨状


 母さんが持ってきてくれたティッシュでぐしゃぐしゃになった顔を拭う。垂れてきた鼻水を思いっきりかんで耳がいーんとなりながら、俺はようやく落ち着きを取り戻していた。


 母さんはまた微笑みながら折り紙を折っている。もう俺のことなど忘れてしまっているようだった。きっとそれでいいのだ。己の罪すら忘れて、安穏あんのんとした日々を死ぬまで繰り返す。母さんが早めにボケてしまったのは、一種の罰のようにも思える。


「また来るよ、母さん」


 聴こえていなくても、そう呼びかけて部屋を後にする。俺は自分のことで母さんを憎まない。けれどもしかしたら、ここに来る頻度は少なくなるかもしれない。それでもいい。それが人として当たり前だ。けれど、やっぱり母さんが死んだらちょっと泣くだろうと思う。


 車に乗り込んで俺は腕のサポーターをはめ直した。もうほとんど痛みはないが、医者からは念のため、しばらくサポーターを付けていろと言われている。

 そうして車にエンジンをかけようとして、俺は手紙のことを思い出した。そういえば、まだ最後が読めていない。


 もう何が書いてあっても俺は驚かないし絶望しない。そう意気込んで手紙に目を落した。


『追伸:まあこれだけ書いても春高先生なら人道的選択を行うだろう。なので私は前向きに、貴君の体質を治すためにこれから徒歩で杉岡神社に行って来る。神社の英雄に貴君への祝福を取り下げるよう直訴じきそするのだ。彼がどれだけ狂ってるか分からないし言葉が通じるかも不明だ。長正路の所業で狂いはさらに進んでいることは確かだろうが……程度が分からない以上、説得に失敗すればマズいことになるやもしれん。まあ、それは私の見込みの甘さゆえの失敗なので気に病まないでくれたまえ』


「追伸が一番重要じゃねえか!!」


 思わずツッコミを入れて、俺は大慌てで車のエンジンをかけるのだった。






 山道でスリップしないギリギリの速度まで飛ばす。神社は石段を登った先のひと際小高い丘の上にあるらしい。石段の前に数台の車を駐車できるスペースがあった。


 石段の前に車を滑り込ませる。道の途中で柳楽の姿は見かけなかった。時間から考えてもう帰ってるなんてことはない。つまりここに彼女はまだ居るはずだ。


 転び出るように車を降り俺の身長の倍ほどの高さを有する石段を駆け上る。周囲は木々に囲まれている。参拝客がいる様子もない。


 手すりもない急な勾配を上がっていく。最初に真っ赤な鳥居とりいの頭が見えて、その柱を伝うように神社の敷地が見えてくる。瓦の乗った張り出し屋根、くくりつけられた鈴とそれを揺らす太いロープ。奥行きは十五メートルほどあるだろうか。脇に古びた詰所が現れ、砂利の色が見えたことで視界が一気に開ける。


 瞬間、俺は足を止めた。


 鳥居の向こう、駆ければ二秒もかからない位置に、少女の体が真っ赤な液体を散らしながら仰向けに落ちてきたからだ。


「なっ、柳楽!?」


 思考の停止はすぐ解けた。こういう時、急場に慣れてる自分の脳みそに感謝する。


 残りの石段を一足に跳び越して柳楽の元へ駆けつける。無造作に倒れ伏した柳楽は、その足音に反応して、視線だけをこちらに向けた。


「……やあ、春高先生。……来てしまったか…………すまない、ヘマをした。平和的に話し合おうとしたのが……だめだった……な」


「ヘマどころじゃねえよ! なんでこんな――」


 彼女の頭の下に手を差し込みながら、俺は傷を確認した。鈍い刃物でなぶられたような傷が四肢に幾筋か、そして腹部には、巨大な鉤爪かぎづめえぐられたような跡があった。腹なので骨までは見えないが、引き裂かれたブラウスをめくればえぐられた肉の奥に内臓が見えてしまいそうだった。


 だめだ、これは今すぐ治療しないと手遅れに……。


 俺の顔が青くなっていくのに気づいた柳楽が、荒げた息の狭間で笑みを作る。


「ははっ、ごほっ。――なに。いろいろ準備して来たからね。……すぐには死なないさ」


「いま病院にっ」


「それまでは……もたない。貴君も、理解……してるだろう」


 何を言ってるんだ、こいつは。とにかく治療を、救急車、いや電波が来てないから、車で連れて行けば。そもそもこの傷で動かして平気なのか?


 余計な思考が頭の中で行き合って一つにまとまらない。柳楽の言うのおかげなのか、傷の大きさに比べて出血は激しくない。それでも、真っ赤な液体は石畳を濡らし、青いブラウスを侵食していく。


 どうにかしないと、本当に彼女が死んでしまう。そもそもどうしてこんなことに。そう考えた瞬間、辺りの空気が変わるのを感じた。


 身体の重圧が増え、呼吸が苦しくなる。これは柳楽が舞った時と似て非なる空気。あれは澄み渡った変化だったが、これはまるで、空中に見えないほど細かななまりをまき散らされたみたいだ。全身に鳥肌が立ち、頭蓋ずがいの奥で警鐘が鳴る。


「あーあ……。貴君が来たから…………一段と、おかしくなってしまった」


「何を」


 言ってるんだと聞こうとして、気づく。柳楽はさっきから、本殿のほうを気にしている。しかしそっちには何もない。いたって普通の賽銭さいせん箱が置かれるだけだ。


 まさか、居るのか? 俺には見えない何かが――この神社に祀られる神もどきの英雄が。


 柳楽に襟首を掴まれ視線を引き戻される。口から鮮血をほとばしらせながら強く俺を見据える彼女の瞳が間近にあった。


「逃げたまえ。……今ならまだ……鳥居の外に出れば、逃げられる」


「柳楽も一緒にっ」


「捨て置けっ。手遅れだ」


 気丈に口角を片方つり上げ、柳楽が俺の胸を押す。強い力じゃなかった。

 なのに俺はそれだけで尻餅をついた。


 柳楽は仰向けに本殿の方を睨みつけ、荒く浅い呼吸を繰り返している。


 俺がこんなに簡単に尻餅をついたのは、俺の心が折れかけているせいだ。


「それじゃ……だめだ」


 言葉を零す。それだけじゃ意味がない。考えろ。考えろ。今俺にできること。死にかけの柳楽の命を救う。彼女がここから逃げられるようにする。全て両立できる方法を何か――――!


「――――


 一つだけ思いつく。それは酷く勝算の少ない博打ばくちだった。九割五分で俺は死ぬ。でも少なくとも、きっと柳楽は助かる。


 思い立ったら、恐怖で身がすくむ前に行動するのが俺の流儀だ。俺はもう一度柳楽の前に膝をついた。そして謝罪を先に伝えておく。


「すまん、あとで思う存分殴れ」


「……はっ? ――ちょっ!?」


 驚愕きょうがくの声が真横で響く。柳楽の身体がビクリと跳ねた。俺は彼女の腹部にそっと顔を近づけ、血の溜まったその傷に口づけた。



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