第四十話 狂った英雄


 俺の奇行に柳楽が戸惑いの声を上げる。

 

「せんせっ――!?」


 俺の頭を遠ざけようと押すが、その抵抗には力がない。俺は構わず傷口の血を吸い取り、さらに周りに付着している血を舐めとった。


 言葉にしてしまうと変態的だが、柳楽の命を救う方法がこれしか思いつかないのだから仕方ない。どんなそしりも甘んじて受けよう。このあと俺が生き残れたならの話だが。


 喉を伝っていく鉄味の液体の感触に、それで俺は十分だと判断して顔を上げた。袖で鼻に付いた血を拭う。


「なっ……なにを!」


 柳楽は顔を真っ赤にして目を丸くしている。説明なしにこんなことされたら誰でも怒りと羞恥でそうなる。しかし今は言葉を交わす暇はない。俺は柳楽から正面へと顔を向けた。


 始めはそこに何も見えなかった。なんの変哲へんてつもない神社の本殿があるだけだ。しかし頭痛が酷くなるにつれ、ぼんやりとその姿が浮かんでくる。


 が実体を現すのに、そう時間は必要なかった。


 俺の目の前には思った通り、さっきまで見えていなかった異形の姿が映っている。


 柳楽は以前言っていた。巫女である柳楽の血を飲むと、そこらの神の姿まで見えてしまうと。


 彼女の言葉に偽りはなかった。現に今、俺には見える。人々に祀られ、存在を忘れられて神と間違われてもなお、他人のために力を使おうと励んだ英雄のなれの果てが。


 もう人の身体を捨てた霊魂だからか、見た目は普通の人間の常識に当てはまらない。顔は痩せ型の平凡な造りだ。なのに身長が二メートルはあり、恰幅かっぷくもいい。筋肉の鎧でもまとっているようだ。


 身体にはボロ布をまとっている。裾が解けて紐が垂れ、ほつれと破けた跡がここからでも目立つ。

 およそ神聖な存在には見えない。そして特筆すべきは、その手足が人のものではなくなっていることだった。


 手足は皮膚の代わりに鱗で覆われている。岩をも砕きそうな拳は頭の倍ほどもあった。指の先には獣を思わせる鋭い鉤爪かぎづめが生えている。柳楽の腹部を削ったのはあの爪だろう。まだ血がしたたっていた。


 人の姿を離れてしまったのは、龍神として長らく祀られたせいなのか。それとも、意識の狂いがその身すらも変貌せしめてしまったのか。


 かつての英雄に、表情はない。ただ血走った眼で俺たちを捉え、並んだ牙をカチカチ鳴らしている。かと思えば時折痛みを抑えるように頭を抱え、背筋を凍らせるような雄たけびを上げた。


 こうやって見てみて、さっきはどうしてこんな存在を無視できたのかと疑問すら浮かぶ。


「はるたか、先生。……見えたのだろう。逃げろ……襲ってくる、前にっ」


 ショックから回復したらしい柳楽がそう忠告を飛ばしてくる。俺はそれで、意識を引き戻した。あまりに異形を体現した姿に言葉を失くしていたのだ。


 俺は立ち上がり、柳楽を迂回して狂った英雄の前に立つ。また後ろから逃げろと声が届くが、そうまで言われて逃げられるわけがない。


「俺はな、自分の何を諦めても、俺のせいで傷つくものを見捨てないと昔から決めてるんだ」


 見栄を切る。虚勢を張る。そうやって震える足に叱咤しったして、己を鼓舞こぶする。


 まだ英雄とは五メートルほど距離があるのに睨まれただけで背筋に冷たいものが走った。英雄の周りには、あの呪詛と同種の黒い霧と共に威圧感が漂っているようだった。動物園に行った時、熊の檻が目の前で壊れた時より恐い。


 あの時はどうやって助かったんだったか。そうだ、逃げて飼育員に助けを求めたのだ。


 だが今は、逃げることだけは選べない。


「ここでこいつに背を向けて、柳楽を見捨てて逃げ出したら俺は人として終わる。自分の不幸に胡坐あぐらかいてるクズに成り果ててしまう。それだけは何があっても許せない」


「そのために……命を――捨てると、言うのかっ!」


 背後の声は必死だった。どこか泣いているようにも聴こえる。そうか、柳楽はそれほど、俺の身を心配してくれるのか。


 だったら、それに応えるのが教師で、男ってもんだろう。


「無駄に捨てる気はない。柳楽は知らないかもしれないが、俺は頑丈さが一番の取りなんだ」


 俺の言葉に柳楽が絶句する気配がする。俺はそれに苦笑して、すぐ動けるよう腰を落とした。


「絶対に柳楽おまえを救う。そのために奇跡が必要だっていうのなら、――――この場の不運は、俺が全て喰い尽くしてやる」



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