第三十七話 暴く罪影
土曜の昼下がり、俺は老人ホームの一室の窓から外を眺めていた。一面に灰色の絵の具を伸ばしたみたいな空が広がっている。
今日は曇り空で済んでいるが、明日は梅雨らしく土砂降りになる予定らしい。今日の夜から天気が崩れるだろうと天気予報は告げていた。それが終われば梅雨明けなのだそうだ。
俺は、そのどんよりとした色を眺めながら色んなことを考えていた。
今までの自分の人生のこと。俺の体質の原因を作った誰かのこと。そして、
「悩んだ顔ぉしてるねーぇ?」
ぼんやり思考を巡らせていると、そう声をかけられた。母さんは顔の余った皮にやわらかな脂肪をまとわせ、静かに笑っていた。
昔はもっとしゃんとした背筋で、精力的に仕事をこなす女性だったが。ボケてからはいっきに年老いてしまった。あの頃の鬼気迫る様子は面影もない。
「なんでもないよ。…………そのゼリー、まだ食べてなかったのか」
母さんの座るベッドの横には、柳楽が先週持ってきたゼリーの詰め合わせが置かれていた。包み紙は取ってあるが、箱は開いていないようだ。俺は椅子から立ち上がって箱を開いた。
「……なんだこれ」
箱の中には飾り気のない封筒が入っていた。中に便箋が入っているらしく、膨らんでいる。宛先も差出人も書かれていない。柳楽が入れたのか?
「母さん、これ……」
「それねーぇ? また持ってきてくれたのよーぉ」
「また?」
「今日ねーぇ」
「…………」
今日? 不思議に思った俺は、開け放した扉の外を通った職員に声をかけた。
「すみません、今日俺の他に、この病室に来た人はいますか?」
「今日ですか? 三十分ほど前に、先週もご一緒にいらっしゃってた女性が帰りましたよ」
職員さんはそれだけ言って、車いすを押しながら去って行った。先週来た女性って、柳楽だよな? 柳楽がここに来ていた? なんのために。
「母さん、柳楽は何か言ってなかったか?」
嫌な予感に胸がざわめき、俺は母さんに詰め寄った。母さんは口をもごもごさせている。
「かーさんて、私のことかーなぁ?」
「そうだよ。さっきまで髪の長い女の子が来てたろう? このゼリーを置いてった子だよ。何か言ってなかったか?」
ゼリーを見せながら、ゆっくり一言一言を丁寧に発音しながら訊く。すると母さんは記憶を辿るように首を傾げた。
「んーん? えっとねーぇ。遊びに来てくれてねーぇ。可愛い子だったねぇ。アナタも、ああいう子を嫁にするといいよーぉ」
「そういう話はいいから。何か、伝えられたことはなかった?」
再度尋ねる。本当に何もなかったのか、それとも母さんが忘れてしまったのかは分からない。母さんは分からないという顔をするばかりだ。俺は箱から手紙を取り出し、母さんの前にかざした。
「じゃあ、これはなに?」
手紙を受け取ってじっと考え込んだ母さんは、やがて笑みを浮かべて手紙を俺に返した。
「これねーぇ。次来る人に渡してってーぇ言ってたねぇ」
「そうか」
母さんを訪ねてくる人間なんて、今はもう俺の他にはいない。柳楽もそれは知っているだろう。
ならやはり、俺宛てなのか。手紙を受け取り、封を切る。中からは一枚の便箋と、
俺は便箋を広げた。そこにはテストの丸付けで何度か見た、柳楽の几帳面な字でこんなことが書かれていた。
『春高柘弦氏へ。
――知識とは、必ずしも己を助けるものではない。過ぎた知識で身を亡ぼす者もいる。同様に、知るべきでない真実というものもこの世には存在する。きっと、ここに私が記したものは、貴君にとってそういう類のものだ。何も知らないまま生きていたほうが幸せなのだろう。
だが、それでも知りたいと望むなら。
禁断の知識を望むなら。
同封した封筒を開き、中の手紙を読むといい。おすすめはしない。できれば、開かずに焼き捨てて欲しいとすら私は願っている。それは、この手紙が貴君を傷つけることが分かっているからだ。私は貴君を気に入っている。できれば交友を続けたいとも願っている。だがこの手紙を開いた時、貴君が今の貴君のままでいられる保証はない。……それでも私は、貴君が賢明な判断のできる人だと信じて真実を記す。
――
便箋いっぱいに書かれた手書きの文字。署名は確かに柳楽のものだった。そこには俺への気遣いと優しさが、不器用にも詰まっている。
その手紙へ最後まで目を通した俺は、歯を食いしばった。
「……んな気遣いばっかしやがって」
手紙がくしゃくしゃになるのも構わず、拳を振るえるほどに握り締める。
俺を誰だと思ってる。諦めスキルだけで不運な人生をなんとか生き残ってきた男だぞ。こと最悪の想定だけは、いつだってしてるんだよ。自分が傷つかないように。俺のせいで、誰かを傷つけてしまわないように。
どれだけ備えても、諦めても、それでも傷つくことはあった。俺は対人運には恵まれてる。それでも、胸糞悪くなる出来事を全部避けてこれたわけじゃない。人並み以上に苦労して、
胸に渦巻く
ああくそっ。イライラする。何が気に喰わないって、柳楽にこんな心配かける無様な自分に一番腹が立つ。
柳楽に依頼したときから決めてたんだ。全部諦めた俺の、これが最後の期待だって。俺は、柳楽の出す答えに全てをかける。たとえ最悪な結果でも全て受け入れると決めていた。
息を吐いて、封筒を手に取る。封はされていなかった。中に入った便箋は同じく一枚。誤って破ってしまわないように、丁寧に紙を開く。
単刀直入な柳楽らしく、書き出しはこうだった。
『貴君に歪んだ神の祝福を与えるよう願ったのは、他でもない、貴君の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます