第三十六話 日常は手ごたえのない


 いつの間にか金曜日が終わろうとしていた。本当にいつの間にかって感じだった。勝政かつまさと対峙した月曜の放課後から、今日の放課後まで時間が飛んだようにすら思える。


 原因は一つしか思い浮かばない。この四日間、柳楽からの接触が一度もなかったのだ。


『貴君は杉岡神社に近づくな。狂った偽神と、その神が祝福を与えた貴君が遭遇すると何が起こるか、私にも分からない。正確に言うと思い浮かぶ十七パターン中、十四パターンで偽神が暴走し貴君が死んでいる。祝福を授けられた場で、授けた神に会うんだ。貴君の不運体質はあの場においてのみさらに隆起するだろう。言うなれば即死だ』


 月曜日の去り際、そう言われたのが最後だった。そんなことを言われたら一人で杉岡神社に行こうとは思えない。この体質の原因が目と鼻の先にありながらも、俺はそんなふうにじっとしていることしかできなかった。その間も柳楽は一人で何か調べ物をしているようだ。


 頼られないこと、自分のことなのに蚊帳の外に置かれていること。そういうことの一つ一つが気道に詰まって俺を息苦しくさせる。何より、学校で会っても愛想笑いして素通りされるのが一番俺にはきつかった。


 いつの間にか勘違いしていたのかもしれない。柳楽の仕事に付き合って、柳楽の素顔を知って、思いあがってしまっていたのだ。


 俺は彼女の理解者なのだと。彼女の深いところまで、自分は触れているのだと。


 浅はかな思い上がりだ。俺は柳楽にとって都合の良い足。もしくは依頼者の一人にすぎないというのに。


 せめて俺が柳楽にしてやれることはないだろうか……。


「って、俺は面倒臭いメンヘラか何かかっ」


 自分でツッコミ入れても虚しいだけである。


「急になに叫んでんだよ先生ぇ。キモイよ」


 横合いから罵倒ばとうが飛んでくる。考え込み過ぎて忘れていた。回収したノートを生徒に運ばせてるんだった。


 横を見れば、そこには二クラス分のノートを運ばされている短髪少女がいる。今日は彼女が日直だったのだ。


「すまん、存在忘れてた」


「はあっ!? なにそれすっごい傷つく―—あっ椅子」


「椅子? ──どぐほあ!?」


 背中に衝撃と鈍痛が走って俺は膝をついた。俺にぶつかってきたものの正体は菊池の言葉通り生徒の椅子である。

 どうやら通りかかった教室の窓から椅子が飛んできたらしい。


「だ、大丈夫か柘弦つづるー!!」

「うわーっ、先生大丈夫!?」

「春高先生がやられたー!」

「ごめーん先生!」


 二年生の教室からわらわら生徒が出て来る。全員焦った顔をしている。その奥では、椅子を投げたと思しき生徒が青い顔をしていた。

 状況を見るに、あいつが誰かと喧嘩してカッとなって投げた椅子が俺にクリーンヒットしたってとこか。……腰が、痛いです…………。


「先生、ごめん……その椅子やったの私……。大丈夫?」


 案の定一人の少女が横に膝をついて俺を覗き込んでくる。今にも泣きそうになってる彼女に俺は腰に力を入れて立ち上がり、首の後ろを掻いてみせた。


「あー……なんだ。ガラスが割れなくて良かったな」


「この人窓の心配してる!?」


「うるせえぞ菊池。かすっただけだ。そっちのお前も、んな泣きそうな顔すんな。喧嘩はほどほどに、ステゴロでやれな」


 眉を悲痛に寄せる少女に軽く手を振って、俺は先に歩き出した。まだ腰は痛いがそんな姿は見せられない。


 ちらっと振り返って確認した二年の連中は、教師からなんのお咎めもなかったことに困惑しつつもほっとしている様子だった。さすがに喧嘩を続行することはなさそうだ。


 角を曲がった俺は深くため息をついて、腰をさする。

 ふう、上手く逃げられた。

 喧嘩の後始末なんて、んなダルクソ面倒なことやってられっか。生徒が書いた反省文を誰が採点すると思ってんだか。


 後を追ってきた菊池が俺に追いついた。


「ね、マジで大丈夫?」


「おう、俺の取柄は丈夫なことくらいだからな」


「ふーん、よかったぁ。じゃあ遠慮なくお願いできるや。柘弦つづる先生、これ運ぶ帰りに勉強教えてよ」


「おっおう、まあいいが。今日はどうせ暇だろうし。そういえば菊池きくちお前、いいとこの大学目指してたな。そのためか?」


「なんで柘弦つづる先生が知ってるし!」


「進路調査書の回収担当は俺だからな。受け持ちの生徒の分は全員目を通してるぞ」


「先生って、さりげに教育熱心みたいな部分あるよね。何を企んでいる!」


「企んでねえよ、仕事だよ。熱心ってわけでもねえだろ、こんくらい」


「いや、普通は担任でもなければ生徒の進路希望先覚えてたりしないよ」


 呆れた顔でそう言われる。そうなのか? でも彼女たちも三年生なんだから、進路先のレベルに合わせた授業やらないと無意味だろ。給料泥棒になってしまう。共用の冷蔵庫からたまに拝借してる栄養ドリンク代の分くらいは多めに働かなくては。


「最近は小テストの点も上がってきてるし。そんな頑張らなくてもいいんじゃないか? まだ六月なんだし」


「ダーメ! あたしの理想意外に高いし! この爆乳に誓ってあたしは勉強を止めない!」


 と、胸を張る。そんなに反らしても突き出るものが無いから腹を強調するだけである。


「前から思ってたが、お前の胸は平均以下だろ」


「真顔で事実を言わないでよー。これは願掛けなの。言い続けてればマジで巨乳になる日が来る!」


「いいや。俺は先日、本物の巨乳を見た。あれは人の意思ごときでどうにかなるもんじゃない。自然の脅威と同じたぐいのなんかだ。選ばれし者のみが手にする名誉と肩こりの象徴だ」


「なにその巨乳めっちゃ見てぇ。っていうか、先生がおっぱいの話にノってくるの珍しいね」


 言われて自分でもはたと気づく。確かに前だったら無視していただろう。話を続けてしまったのは、相手がお調子者だというのもあるが。それにしても警戒心が緩んでいる。


「あー……なんかとある奴を見てたら、わざと流すのも面倒になってな。下ネタ系で盛り上がれるのって仲良い奴とくらいだし。楽しめる時に楽しんだほうが良い気がして」


 思っていたより柳楽に毒されてるなぁ俺。せめて相手は選ばないといつか通報される。


「ふーん。でも女子の下ネタって男子が思う数倍はえぐいよ」


「それは知ってる。会社勤めの時おつぼねさんたちに散々いじられたからな。さすがに女子の全力にはノッてやれない」


 おばさんたちの話って、男の下世話な話なんて子供のお遊戯ゆうぎに思えるほど強烈だからな。女子高も女子だけで集まってるからか、雰囲気が似てる。教室の前を通る時に漏れ聴こえてくる会話とかきついし。


「そっか。ねえ、先生って会社辞めて教師になったんだよね。教師の仕事、楽しい?」


 急に真剣な眼差しを向けられた。そういえば、こいつが目指してる大学って教職も取れたな。もしかして……。これは真面目に答えたほうがよさそうだ。


「そうだな。教師って、誰かの成長に直接貢献できて、しかもその成果がすぐ見える職業だ。嬉しい時もあれば、自分の力不足を嘆くこともあるよ。でも俺たちにできることはほんのちょっとだ。最終的には、お前らの頑張りに任せるしかない。そういう点では、苦しいことのほうが多いかもだ」


 扉の前で受け取ったノートを職員室の机に置いて、自習室へ向かいながら言う。


 自分の努力が、生徒の成績に必ずしも繋がるわけじゃない。頑張った分だけ空回りすることもあるだろう。なにせ、人を相手にする職業だ。しかも生意気で思春期な奴等を相手に。


 浦葉うらは女子高はけっこうゆるい学校だからまだいいが、進学校とかだと辞めたくなることも多いかもしれない。


「でも、先生は先生をするんだ」


「まあな、この職は俺に合ってんだ。自分でも意外だけどな」


 苦笑して先を急ぐ。

 俺は、自分の努力が不運のために叶わなかった分を、生徒に預けているだけなのかもしれない。まあそれでモチベーションが上がるならいいか。生徒に迷惑かけてるわけでもないし。


 それに苦労して教師になったからこそ、こういう話に乗ってやれてるわけだ。


「……ありがと、参考になった」


「おう、お役に立てたならよかったよ。……ん? その包帯どうした?」


 彼女が手を掲げて気がついたが、菊池は腕に包帯を巻いていた。制服の袖で隠れていたのか。


「やあ、朝一の家庭科で切っちゃってさ。飛んできた包丁でスパーっと」


「何があれば授業中に包丁が飛んでくんだよ。事故どころか事件だわ」


 呆れてしまう。絆創膏だけじゃなく包帯も巻かれてるってことは、よほど出血したんだろう。さっきの喧嘩といい、この学校の管理はどうなってるのか。生徒荒れてない? 女子高ってこういうもん?


 しかし、なるほど。さっきの俺の不運はこれのためか。


 心中だけで納得して、俺は包帯の、黒くにじんでいる部分を指でつついた。


「えい」


「おおおおいっ!? 傷口つつかないでよ!」


「触っても痛くないだろ? もう治ってんじゃねえの?」


「はあ? んなわけないじゃん。……痛くはなかったけど」


「いやいや、若さ偉大だから。俺みたいな三十路みそじと違って、十代は数時間もすれば治るから。見てみろよ」


 軽い調子で言うと、菊池は口の中で文句を言いながら包帯を取った。


「えっマジ?」


「な?」


 そこには一筋の赤い痕があるだけで、もう怪我の余韻は見当たらない。


「おっかしいなぁ。けっこう深かったんだけど」


「思ったより表面しか切れてなかったんだろ。治ってよかったな」


 菊池は首を傾げているが、俺はただ納得するだけだった。

 崖から柳楽と落ちた時と同じだ。あの血濡れた枝は、確かに柳楽の足に刺さっていた。だが柳楽も、そして菊池にも、もう怪我なんて見えない。


 この不思議な現象を俺は、。原理に気づいたのは勝政の一件以降だが。


「ま、いっか。勉強道具取ってくるね」


 菊池は考えることをやめたらしい。明るく笑って途中の道で分かれる。俺は先に実習室へと向かいながら、柳楽のことを思い出していた。


「あいつは、ちゃんと進路とか考えてるんだろうか……」


 まだ柳楽の進路調査書を受け取っていない。なまじ収入があるから、その辺適当に考えているのかもしれない。今度会ったら相談くらいは乗ってやろうか。


 俺は柳楽にとってただの依頼者に過ぎない。

 だがそう、俺は教師だ。柳楽がこの学校の生徒でいる限り、えにしは消えない。


 そう自分を納得させて俺は、ようやく自分の体質の真実と向き合う覚悟ができた気がした。


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