「源」~残りゆくもの~
第三十五話 正しき願いと
「杉岡神社はもともと、あの場所にあったのではない。我らが
柳楽は空き缶を脇に置き、神妙な顔で説明を始めた。
神社には
とにかく御神体ってのは、参拝に来た奴等が拝む対象ってわけだ。この辺り一帯で古くから信仰されていた水の神、龍神の御神体は古木だった。柳楽が取り出したのは縦五十センチ、幅が十センチくらいの木片。流木っぽい。変色した古いアンティークと言われたら納得してしまいそうな見た目だ。
「いやいやいや、なんでお前が持ってんだ。取ってきたのか」
「人を
「神社で祀られてるはずの御神体がどうしてあそこのちっさい祠に? …………まさか」
約八十年前に学校近くから山の上へと移設したはずの神社。神社そのものだけが山の上に移動し、御神体は学校近くに新しく建てられた小さな祠の中に残された。じゃあ神社が建つ前の、山の祠に祀られていたものはどこへ行った。そして今、神社の中に収められている物はいったい何だ。
そこまで思考が及んで、俺はハッと顔を上げた。そこには、我が意を得たりと笑う柳楽がいた。
「そう、元々杉岡神社が移設される場所に祀られていたものと、移動して来た龍神の御神体。二つは移設の時に入れ替わっていたのだよ」
つまり、小さな祠に祀られていた何かが、そのまま今の杉岡神社に祀られているのだ。外側だけが交換され、中身は移動しなかった。そして、誰も中身が違うことに気づいていない。なぜなら――
「杉岡神社は建て替えのあと、奇妙な噂が流れ始めた。曰く、『願いが叶う』と」
しかし神は人の願いなんか叶えてくれない。漏れ出た力が、人の願いに触発されて勝手に運を切り拓くだけ。そこに神の意思はない。だから、必ず願いの叶う神社など存在しない。
そこから一つの可能性が浮かび上がる。つまり、今の杉岡神社に祀られているのは、神でもなんでもない。人の願いを叶えようとする何かなのだと。
「その答えはもう出ている。旧
人間だから、人間の願いを叶えようとする。神とは人間の願いを叶える存在だと誤解しているから。神様に祭り上げられた人の英雄は、神としての役割を果たさんと、人の願いを叶え始める。
「地上に残っている神々は天に上った連中と違って、信仰されねば力を得ない。信仰が無くなり完全に人々の記憶から消えれば、神もまた薄れ、消えゆく定めだ。この町の龍神も、これで弱ったほうなのだ。
逆に言えばね先生。信仰さえ集められれば、人の霊魂だって疑似的な神へと昇華するのですよ」
その原理は俺にも分かる。例えば日光東照宮は徳川家康を神格化して神として祀っているし、学問の神様である大宰府の
「しかしね、家康公や道真公が神と成り得たのは、高貴な身分にあったからだ。前にも説明しただろう。日本という土地では身分の高い者の霊こそ強い力を得るのだよ。では、湯上村で祀られた英雄は高貴な者だっただろうか? その心根の在り方までは知らないが、少なくとも彼は庶民だったそうだよ。神として信仰を得られる存在ではない」
ではなぜ、かの英雄は人の願いを叶えるほどの力を持っているのか。それは、人々に龍神と間違われているからだ。龍神への信仰が英雄に注がれ、彼の力となっている。
「だがその力は、本来彼の力ではない。最初から歪んでいたんだ。英雄は神ではなく、その名代に過ぎない。信仰の質が違う。だから偽の器は耐えられない。ほんの少しの亀裂で意識が崩壊するほどにね。そしてその亀裂が入ったのが、今から三十年ほど前」
そこからは、今まで集めた情報と、龍神や
「杉岡神社に一人の人間がやって来た。その人間は切羽詰っていて、杉岡神社にとある願いごとをした。それは人の道を外れた、非道そのものを体現したような願いだったのだろう。かの英雄は、決して悪しき願いを叶えることは無い。英雄は人間だ。心無い神ではないのだから、良識というものを
神社に溜まる力には本来、指向性はない。英雄が人だったからこそ、叶える願いと叶えない願いを選別することができた。しかし力は強い願いに触発される。どれだけ英雄が拒んでも、その人間の願いの強さには
「信仰によって集まった力は、その人間の非道なる願いを叶えてしまった。そこからだ。杉岡神社の噂が変質したのは。移設以降人間の正しい願いを叶えてきた杉岡神社は、三十年ほど前から『悪しき願いすら叶える』場所になってしまった。英雄は、己の意思に反した悪逆に耐えきれず狂い果てた。もう何が善で悪なのか判断ができていないんだ」
飲み終わった空き缶を二つ、ビンカン用のゴミ箱に捨てて、柳楽は苦痛を堪えるような顔で俺を振り向いた。
「
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