第十四話 男の願い


 女を尾行していた頃はまだ夕日のオレンジに染まっていた雲も、いつの間にか重い灰色へと立場を変えていた。空は昼間の名残なごりを薄れゆく青色に残すだけだ。それももう消えかけている。太陽はすでに、その姿を住宅の屋根の向こうに隠してしまった。


 数刻と待たずに夜が始まる。夏頃の短い夜が今日も変わらずやって来る。


「さあ喜多霧きたぎりさん。お手をどうぞ」


 そしてここはすっかり日も暮れた、まだ塗装の新しいアパート。開け放した玄関から中へ向かって柳楽なぎらが手を伸ばす。その先にいる喜多霧は緊張した面持ちをしていた。五日ぶりの外の空気が、風になって喜多霧の頬を撫でていく。


 柳楽は何も言わず、喜多霧の心の準備ができるのを待っている。喜多霧は自分をじっと見つめる黒水晶のように輝く瞳に促され、その手に自分の手の平をそっと乗せた。


 名を奪った女がかけた呪いは消えた。喜多霧もさっき唐突に自分の名前を思い出したという。ならばもう彼女の存在は世界に認識されている。部屋の外に出られるだろうということだった。


 喜多霧は透明な壁に阻まれたときの事を思い出しているのだろう。その指先は震えている。今まで何度も出ようとして、半狂乱になるまで失敗したのだ。外への期待と、また駄目だったらという後ろ向きな感情が彼女の中で拮抗きっこうしているようだった。


 喜多霧は俺にリードを握られ主人を待っているプードルに目を向けて、決心したようである。柳楽に引かれるまま前へ進む。


 指が外気に触れ、腕まで外に出た。躊躇ためらいながらも足を踏み出し、半身が外に出る頃には喜多霧の顔は喜びの笑みに変わっていた。





「最後まで車を出してもらってすまないね」


 先に車に乗り込んだ柳楽が突然そんなことを言う。コイツにも遠慮という概念があるのかと笑ってしまったが、柳楽は至極意味を持たない透明な様子で唇を結んでいた。


 その目尻の辺りにだけ仄かな後ろめたさを読み取った俺は、真面目に調子を戻して愛車に乗り込んだ。


「いや、最後に良い物見せてもらったし、珍しい経験も積めた。それなりに楽しんだから気にするな」


「そうかい? しかしあの女の所ではお恥ずかしい姿をお見せした。できれば忘れてもらえると助かるのだが……」


「無理だな。たぶん夢に見るぜ」


 めっちゃ怖かったからな。あの柳楽の怒り顔は事あるごとに思い出してしまいそうだ。今度から雷が鳴ったらあの光景が浮かぶのは必須だ。柳楽も、苦笑するだけでそれ以上言及しない。その代わりに彼女は俺の肩をつつく。


「どうした。便所か?」


「トイレと呼べと指示してきたのは貴君だろうに……。いや、そうではない。約束しただろう、どうだい?」


 不安げに俺を見つめる視線にいったい何のことだと問い返そうとして、思い出した。そういえばコイツを信用して依頼するか否かというやりとりをした気がする。


 なんだか随分前のことに感じるが、昨日のことなんだよなぁ。俺は感慨にふけりながら、返事を待つ柳楽に微笑みかけた。


「ああ、お前の力は本物だ。優秀な情報屋なんだろうな」


 柳楽の顔がぱっと明るくなる。本人は表情を引き締めようとしているが、隠しきれていない。そんなに嬉しいことなのだろうか。


 まあいい。じゃあ、昨日言うべきだったことを改めて言うべきだろう。そうしないとこの契約は成立しない。


 俺は柳楽へ身体を向け、背筋を伸ばした。


「お前に依頼したいことがある。俺の不幸体質を治す方法を調べてくれ」


 言い切ってから深く頭を下げる。ああ、という洩れ聴こえた声に顔を上げれば、自信に満ちた表情で少年みたいに笑う柳楽の顔があった。


「任せたまえ。その依頼、必ず私が果たしてみせよう」


「おう、頼んだ」


 こうして俺は柳楽紗希さきの足代わりから、情報屋『禁断の果実』への依頼者に立場を変えたのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る