第三十三話 自分で思うよりずっと


 龍神が俺の身体を切り裂くことはなかった。大きく開いた口が俺の顔の前で上下に跳ね、柳楽の元へ帰っていく。何事かと見れば、柳楽が龍神の尾を引っ張って引き戻したようだ。仮にも神様にそんなことをして大丈夫なのだろうか。


 柳楽は肝の冷えた顔で叱咤しったするように俺を睨みつけている。相変わらず美人の怒った顔は怖い。


 俺の背後には拘束されたままの勝政かつまさがいる。顔だけ振り向けば、そこには焦るような怒っているような、微妙な表情で固まる勝政の姿がある。


「……なんだよ柘弦つづる君。哀れみのつもり?」


 俺の視線に気づいて皮肉気な顔でそう言葉を絞り出す。俺はそんな勝政に向かって鷹揚おうように頷いた。


「そうだ」


「なっ――」


「むしろお前は、今の自分を哀れだと思わないのか。勝政かつまさ、お前このまま天罰とやらを素直に受ける気か?」


「動けないんだから、仕方ないだろ」


「お前が本当にこの状況を回避しようと思っているなら、それこそ俺を利用して泣き落とししてでも逃げようとする。お前は昔からそういうプライドの張り場所をわきまえてる人間だった。なのに、なぜ今それをしない。まさか本当に自分に全ての責任があるとでも思ってるのか」


 背筋を伸ばし、言い逃れできないよう勝政を真っすぐ見つめる。勝政は口をつぐみ、俺から視線を逸らした。


 ああそうかい。そっちがその気なら、俺は俺の好きなように言ってやる。


「いいか、生まれてからずっと不幸にばかり恵まれていた俺が断言してやる。不幸ってのはな、崖っぷちでも吹く追い風程度に過ぎないんだよ。きっかけでもなければ、決定打にもならない。柳楽も自分で言ってただろう、運っていうのは、人の人生を左右するようなものじゃないって」


 突然語り始めた俺に、柳楽は固い顔をして頷いた。細身に戻った龍神が彼女の頭上を不服そうに泳いでいる。


勝政かつまさは呪術を人に売っていたそうだな。それは押し売りだったか?」


「…………」


 押し黙ったまま勝政は答えない。


「柳楽、どうだ」


「彼が押し売りをしていた様子はない。全て依頼を受けてからの完全受注型だよ。…………春高先生はもしや、彼に責任がないと言いたいのかね」


 少女は途中で何かに気づいたように声音を低くする。だがそんなのは思い過ごしだ。


「違う。俺は全部背負わせるほどのことじゃないと言いたいんだよ」


 柳楽はこちらの意図を探るように眉をひそめ、勝政がちょっと顔を上げる。俺は二人にしっかり届くよう声を張り上げた。


「依頼者は、そもそも呪術なんかを求める時点で、自分でその道を選んでるんだ。本人にも責任の一旦はあるんだよ。勝政かつまさが無知な者に手段を与え、自分の不運を押し付けてたのは確かだ。それでも責任の在処ありかはよくて五分ごぶだろ。勝政かつまさに全部押し付けて、依頼した奴らが背負うべき物を奪うな」


 思い出されるのは喜多霧きたぎりを呪った奥沢おくざわだ。彼女は己の責任を認識していたからこそ、喜多霧きたぎりと共にけじめをつけに行ったんだ。それを無意味なことにしたらいけない。それが俺の身勝手な言い分だ。


 それと俺は柳楽にも言うべきことがある。もう一度彼女の方へ顔を向けた。


「それにな柳楽、神が嫌いだと言ったその口で、お前は天罰なんてものを語るのか」


「――――そっ、それは……」


喜多霧きたぎりの時といい、頭に血が昇ったら手加減忘れるの、やめろ。ちゃんと周りを見て一回落ち着け」


 もちろん俺なんかにこんなことを言う資格はないと分かっている。だが俺は大人として、彼女の先生として、伝えるべきだと思ったのだ。何より彼女に、神の人殺しなんていう片棒をかつがせたくない。


 お前に言われる筋合いはないと逆切れされるかもしれない。そう身構えたが叱責が飛んでくる気配はない。


 柳楽は図星を突かれたみたいな顔で苦し気に唸っていたが、しばらくすると素直に頷いた。


「ぐっ…………いや、うん。……そうだな。冷静さを欠いていた。貴君の言う通りだ、すまない。彼に与えるべきは、彼が犯した罪の分だけで、それ以上ではない」


 苦渋に満ちた表情で龍神を指にまとわせながら言う。俺はほっと息をついた。おおとがめは必要な分だけ済むようだ。


 柳楽が納得したなら、後はこいつだ。柳楽に目配せすると、彼女は俺の意図を汲んでくれたみたいで、龍に何事か伝えて勝政の拘束を解いてくれた。


 渦巻いていた水流がただの水に戻る。動きを封じていたものが消えたのに、勝政は逃げようとしない。代わりに、訳が分からないと言いたげな顔で俺を見つめている。


柘弦つづる君は、僕を憎まないのか。僕は君を利用してたんだぞ」


 なんて、今更なことを言う。俺は嘆息して勝政の瞳を見つめ返した。


「憎まない。憎めるはずがないだろ。お前が人間が嫌いだってのは昔から知ってた。人間は汚いって、醜いって何度も聞かされてたからな」


「ああそうだよ。人間なんてクソだ。他人を平気で傷つけて、しかもそのことをすぐ忘れる。そのくせ自分の善意ばかり押し付けてきて、意見が違えばこっちを悪人扱いだ。弱者を踏みつけにして笑ってる、何百年かけたって争いを止めない自己中ども。そんな生き物、どうしていつくしめる。僕が同じ立場になって、どうしていけない。柘弦君は教師だったな。じゃあたくさん勉強しただろう。人間は自分勝手に争う醜い生き物だって、歴史が証明してるだろう? 文明が発達した今も、優しい人間ほど理不尽に死んでいくんだ。君はその全てを否定するのか!?」


 勝政は噛みつくようにそう叫ぶ。その心に灯る怒りの熱は昔と何も変わらない。相変わらずこいつは、なんもかんも諦めてしまう俺なんかと違って真面目なんだ。


 羨ましいなと、心のどこかで思いながら。俺は彼の言い分に深く同意した。


「否定なんかしない。歴史をほじくり返さなくたって、人間が最低な奴らだってことはそれなりに長く生きてりゃ誰だって分かる。きっとこの世に絶望した人間が思う、その十倍は、人ってのは愚かしい。残虐は繰り返され、作家の描く地獄を、人間は軽々と超えていく。それは歴史が示す通りで、俺たちもそれを連綿と受け継いできた」


「だったら――」


「でもな、俺は思うんだよ。奇跡を願う人間の思う、その百倍は、この世界は美しい。人間が百年生きる時代に、俺たちはまだたったの三十年しか生きてない。それで人間っていう生き物の底が全部見えると思ってんのか? 人間を見限るには早すぎるんだよ」


 勝政の言葉を遮り、俺は続けた。勝政の考えがこの世の全てではないのだと、言い聞かせるように。この世は悪人や悪意だけでできてるはずがない。だって、そうじゃなきゃ俺がこの歳まで生きてこれたのがおかしいから。


「お前が俺を利用してたって関係ないんだ。悪意が全部とはどうしても思えない、それで十分なんだよ。だって、俺がお前たちが居たことで救われてたのは確かなんだから。みんなの考えがどこにあったって、俺が感じてた物がひっくり返るわけじゃない」


 俺はできるかぎり笑って、座り込んだままの勝政に手を伸ばした。普段使わない顔面の筋肉を無理に使ってるから引きつってるかもしれない。


 勝政は暫時ためらいを見せ、それでも俺の手を取ってくれた。


「……僕はまだ君と違って二十代だ。六月九日生まれの君より半年以上若いんだから、そこまで達観できないよ」


「ふっ。ほら、俺の誕生日覚えてくれてるじゃないか」


 思わず噴き出しながら指摘すると、勝政は虚を突かれたように口を半開きにした後、泣きそうな顔でうつむき、笑った。


「中学から毎年祝ってたんだから、当たり前だよ。――友達の生まれた日を忘れたりしない」


 昔一緒になって遊んでいた頃と何一つ変わらない、純粋で控えめな笑顔がそこにあった。


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