第八話 名を奪われた女


 喜多霧きたぎり夕子ゆうこは可愛い顔をした女だった。年のころはたぶん二十二、三くらい。瞳が大きく唇が厚い。


 明るい茶色に染めたボブカットが似合っている。身体は少しふくよかで、その分胸部の主張が激しかった。


 俺は驚きのためについそこへ目が引き寄せられそうになって、失礼に当たると思い直して理性で押し留めた。


 喜多霧きたぎりは田舎から出てきて現在は一人暮らしをしている大学生なのだという。周囲に親戚筋はおらず、この現象に悩まされるようになって大学もずっと休んでいるらしい。


 喜多霧がその現象に気づいたのは四日前。講義の無い日だったので、朝から愛犬の散歩に出かけようとした時だった。


「いつも通り靴を履いて出ようとしたら、身体がそれ以上進まないんです。ちょうど扉の代わりに人の出入りを塞ぐ透明なこんにゃくの壁があるみたいに。窓から出ようともしましたが、駄目でした。外に通じる所には全部、透明な壁があって指一本外に出ることができないんです」


 よほど怖かったのだろう。震えながら語る喜多霧は少しやつれていた。

 しかし俺たちは難なく出入りできる。そう教えると喜多霧は弱弱しく笑い、


「知ってます。グッチが――この子は出入りできますから」


 と愛犬の頭を撫でた。


「けど、私は部屋から出られないんです。だからこの子を散歩に連れて行ってあげることもできなくて……」


 喜多霧はまた泣きだしそうに顔を歪める。彼女にとってはそれが一番辛いことらしい。俺にはその考えがなんとなく分かる気がした。


 今まで当たり前にできていたことが突然できなくなると、予想以上に心がキツくなるものだ。俺も倒れてきた鉄骨で両足を折った時に経験したから理解できる。なにより、大切な者のために最低限のことすらできないというのは、とてもつらい。


 話を聞き終わった柳楽なぎらは唇に拳を押し当てるみたいにして押し黙り、考え込んでいた。その間もプードルは空気も読まずに部屋を駆け回っている。


 俺は柳楽に顔を寄せ、そっと訊いた。


「なあ、さっきの『巫女』ってなんのことだ?」


 しかし柳楽はバチンっとウインクするだけで答えない。うぜぇ。生徒でなければデコピンするのに。


「喜多霧さん。まだ話してないことがあるようだね。冷静になって、私達が怪しく感じられるようになったならそれで構わない。だからもう一度自己紹介させてもらってもいいかい?」


 発言内容からは想像できないほど優しい声に喜多霧は目を丸くし、決まり悪そうに頷いた。柳楽も満足げに笑って頷き返す。


「ホームページを見てくれたのだから知っているだろうが、私は情報屋『禁断の果実』をやっている、柳楽紗希と言う。そしてこっちは春高はるたか柘弦つづるだ」


 紹介され、軽く頭を下げる。それで終わりだと思ったのに、柳楽はなぜかさらに情報を加えていく。


春高はるたか先生は私の通う高校で国語科の教師をしていてね。授業が退屈だと評判の男だ。身長百七十六センチ、体重五十六キロ。現在三十歳、独身、彼女無し。ちなみに初体験は大学三年生の時で、飲み会で酔いつぶれたのを近所のOLに家まで連れ込まれ――」


「おおおおおい。待て待てっ。なんでそんなことまで知ってんだお前っ」


 話が変なほうに進むので思わず遮った。しかし柳楽は当たり前のような顔をする。


「昨日調べたが?」


「そのことは誰にも言ってないのに調べて出て来るわけないだろ!」


「どうかな。酔った時に誰かへ話した、その可能性はないかな?」


「そう言われると自信なくなるな……。いやその前にんなこと調べるなよ、プライベートだろ?」


「連絡用に用意しているホームページではなく、旧式の方法で依頼者から接触を持ちかけられたんだ。不思議に思って調べるのは当たり前だろう。情報屋の面目躍如といった所かな。ちなみに貴君が酔って人に話したというのは冗談だ。本当はそのOLから聞いた」


「俺ですら連絡先知らないのに!?」


「――――ふふっ」


 何者だコイツ! と驚愕していると、笑い声が聴こえ出した。見ると今まで暗い顔をしていた喜多霧が笑っている。俺たちのやりとりはさぞ面白かったらしい。


 もしやと思い柳楽を流し見ると、またウインクされた。やはりコイツの思惑通りだったということだ。だからうぜぇって。


「ふふふっ、ごめんなさい。ずっと塞ぎ込んでたから、こうやって人と話すのは久しぶりでした。神経がささくれてたのかもしれません。せっかく来てくれたのに疑ってごめんなさい。全部話します」


 俺の黒歴史が披露されたのは無駄じゃなかったらしい。喜多霧は表情を和らげ、座布団に座り直す。


「本当は気になることがあと二つあるんです。一つは、この四日間、彼氏と連絡がつかないこと。もう一つは……その……。私は今、自分の名前が分からないんです」


「どういうことですか?」


 思わず聞き返してしまう。前者は分かる。音信不通になった恋人を心配しているということだ。さぞ心細いだろう。


 しかし、後者はいったいどういう意味か。黙っていた俺はともかく、柳楽は何度も彼女の名を呼んでいたというのに。


 喜多霧も答えに窮している。首を捻る俺と違って柳楽には思い当たる節があるらしい。ちょっと眉をひそめて、確認を取るように一言一言を丁寧に発音する。


「そうか、喜多霧さん、貴女あなたは自分の名を呼ぶ声が聴こえていないのだね。そして恐らく、紙に書かれた自分の名前も、見えない」


 言い当てられると思わなかった喜多霧が、返事も置き去りにして何度も頷く。それに柳楽は一つ息をつき、真っすぐ女性を見つめて憐れむように微笑んだ。


「なるほど貴女は名を奪われたのだな。安心したまえ、貴女の大切な名前は、私が必ず取り返して見せよう」


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