「緒」~それは出逢いの運命~

第一話 目につく少女


「へーい、んじゃ終了。日直ぅー」


 チャイムと同時に生徒の号令がかかる。三年生にもなると「令」の挨拶の後に来るはずの「着席」は省略される。


 特に四限目の終わり、つまり昼食前のこの号令の後は、皆いちいち椅子に着いたりはしない。そのまま食堂に行くか、手を洗いにいくか、もしくは友人のもとに駆け寄るかだ。教師にもわざわざそのことを注意する人間はいない。校風がゆるいのだ。


 だからだろうか。周囲が行動を起こす中、一人だけ席について微動だにしない生徒がいると、なんとなく目につく。


 教卓に広げたプリントをまとめていた俺にとっても、それは同じだった。前から二番目の窓側。喧噪けんそうに押されるようにして廊下を目指しながら、俺は横目でそこにいる生徒を盗み見る。


 張りつめたように艶やかな長い黒髪を持つ少女が、俺なんかには思い至らない深遠な問題を見つめるようにして、当たり前のように静止している。


 俺が教室を出て視線を外すまで、少女はただそこに座っていた。


 こういうゆるい女子高でああいう生徒を見るとどうにも調子が狂う。優等生など珍しい。俺は下がってきたシャツの袖を再び捲り上げ、首の後ろを掻きながら職員室を目指した。


 すると後ろから駆けて来る小さな足音が一つ。俺はぶつからないように廊下の端に寄り──


「待ってください、春高はるたか先生」


「おわっ、ど、どうした」


 呼ばれて振り返る。

 そこには腰まである長い黒髪をなびかせ俺に走り寄る、さきほどの少女がいた。


 線の通った鼻梁に細くはっきりとした眉。薄い唇にはお嬢様然とした微笑みが浮かんでいる。つり目ながら十分に清楚と呼べる整った顔立ちだ。教室から走って追いかけてきたらしく頬には赤みが差している。


 少女は俺の無様な反応を見て、花がほころぶように笑う。


「ふはっ、そんなたたり神でも見たみたいに驚かなくってもいいじゃありませんか。これ、お忘れでしたよ」


 女子生徒にしては低めな、落ち着いた声音で差し出されたのは俺の筆箱だった。教卓に置き忘れてきたらしい。


「ああっ、悪い」


「それと、ほつれていますよ」


 少女は幼子の失敗を眺めるような微笑ましさで、筆箱を受け取ろうと伸ばした俺の手首を指先でトントンと叩く。


 確かに、まくったはずの袖がまた降りてきていて、ボタンが外れかけているのが見えた。……よく気がついたな。


 俺はいつの間にか少女の両手から筆箱を受け取っていたらしい。佇む俺に少女の口元がやんわりとほころぶ。


「では春高はるたか先生、また次の授業で」


 少女は俺に軽く会釈えしゃくして、そのまま振り返りもせず教室へ戻っていった。







 昼食を早めに済ませて独り屋上に出る。同僚は皆タバコを吸わない。喫煙者は俺だけなので、唯一の喫煙スペースとして指定されたこの場所は俺のプライベートスペースの様相を呈していた。


 一つしかない鍵もいつの間にか持ち歩くようになっている。どうせ他に使用する人間はいないからだ。


 中庭側のフェンスに寄りかかると、向かいにある校舎が一望できる。ほんの数十分前まで教鞭きょうべんを取っていた三年四組の教室も、ここからなら一応視認できた。とはいえ左斜め方向にずいぶん距離があるので教室の中まで見渡すことはできないが。


 と、日差しが強いからか、一人の生徒が四組のカーテンを閉めた。完全に中が見えなくなる。


「……いまのは」


 まだ三か月目の非常勤講師といえど、自分の受け持つ生徒の顔と名前ぐらいは把握している。あれはさっきも会った……。


柳楽なぎら紗希さき、か」


 なぜか目につく少女。理由は自分でも分からない。


 別に、彼女が周囲から浮いているというわけではなかった。この二週間ほどなんとはなしに見ていたが、柳楽なぎらは人当たりも良く素行にも問題点はない。成績も良いので優等生に分類できる。


 一人で行動している所をよく見かけるが、別段いじめにあっているわけでもないようだ。容姿が整い過ぎているとも感じられるが、そこは女子高。同世代の男子がないせいか、それで標的にされるわけでもないようである。というより彼女自身が女子にモテるタイプの人柄なようだ。


 教育者の端くれとしての目線からは、柳楽なぎらに目をかける理由はない。

 ではなぜ、こんなにも彼女が気にかかるのか。


 俺が柳楽なぎら懸想けそうしているわけではあるまい。十三は歳が離れている。というか女子高に勤めると決まった時、信念として未成年のガキには決して手を出すまいと強く決意したのだ。もはや奴らのパンチラ程度では眉も動かん。


 ではなぜだろう。わからない。昔の知り合いにでも似ていて、無意識に眼が引かれるのか。……もしかしたら、そういうありきたりな理由なのかもしれなかった。


 強引に結論付けて、肺に溜まった煙を吐き出す。


「って、熱っ!」


 長く伸びた灰が強く吹いた風で中折れ、組んでいた腕に落下した。慌ててはたけば今度は後方から声が上がる。見ると十メートルほど離れた正面下方の教室の窓から身を乗り出すボーイッシュな生徒がいた。


「あっコラ柘弦つづる! なに着替え覗こうとしてんだ無精ヒゲ!」


「しとらんわ! 誰がガキの着替えなんぞ覗くか。成人してから出直して来い。あと菊池きくちお前、せめて春高はるたか先生と呼ばんか!」


 冤罪に叫び返すと、菊池きくちはなぜか薄い胸をそらして言う。


「うるっせー! どっちが名前か分かんないフルネームしてんだからどっちでもいいでしょ。てか誰がガキだーこの爆乳が見えぬのかー!」


「見ねえよ。てか、ねえよ。どんなサイズだろうとガキの胸に興味無ぇって言ってんだよ。つか着替えならカーテンくらい閉めろ」


「そんなとこでタバコ吸ってるのが悪いんだよ、ヨレヨレスーツのクソオヤジ!」


 少女は舌を突き出して教室の中へ戻っていった。いやだから閉めろってカーテンを。他の生徒もいるだろうに。


 舌打ちしてフェンスから離れる。菊池きくちは受け持ちの中でも特にノリが良い生徒だったからいいが、そうじゃない着替え中の生徒と目が合いでもしたらセクハラで訴えられる。いや、SNSにさらされる。俺は運が悪いから、そういうのが簡単に起こるのだ。安全策はしっかり取るべき。


 ため息をついて時計を見れば、もう昼休みは残り少ない。思ったよりも長時間タバコをくわえて放心していたようだ。


「ああ、くそっ」


 それは、カーテンが閉められるあの一瞬。本来はお互いの表情など細かく確認できない距離なのに。


「なに動揺してんだ、俺は」


 柳楽なぎら紗希さきと、目が合ったような気がしたせいだった。


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