第四十三話 人を救わんとした者
話し合いの結果、
柳楽の方の傷口もカサブタを剥がしたばかりみたいなピンク色の薄皮で覆われている。完治しているように見えるが、お互い内側には損傷が残っているはずだから気を付けろとのことだった。
すごく今更だが、塩入りコーヒーの時といい、柳楽は間接キスとかまったく気にしないのな。俺も今ふと思った程度だから人のことは言えないが。
成人男性と二人きりで車に乗ったり、自宅を一人で訪ねてきたり。いくら俺が相手でも危機感が無さすぎやしないだろうか。俺ごときに柳楽をどうこうできるとは思わないが、淑女として慎みを持った方がいいんじゃないか?
……まあ今更だし。今更なのに俺からそんなこと言い出したら、俺が意識してるみたいになって恥ずかしいからもう言えないが。その時に注意しておけばよかった。
顔の赤くなる回想で痛みから意識をできるだけそらし、ようやく動けるようになった頃。柳楽は俺の手を引いて立ち上がらせた。彼女の視線の先には、未だ
「かの英雄はもう無害だよ。さて、とりあえず先にこの地に撒き散らされている呪詛をどうにかしなければ、儀式もなにも出来ないな。私は敷地中にお札を貼ってくるから、貴君はここで待っていてくれ」
「おお? 分かった」
柳楽は柳楽で何かやることがあるらしい。さっきまで死にかけてたくせにタフな奴だ。待機の指示だけ受け取って柳楽を見送る。柳楽は本殿や詰所に難しい漢字の書かれた札を貼って、奥に消えて行った。
ここから見ても、お札になんて書いてあるのか半分も読み取れない。変体仮名に似ているが書き手の
なんだかずっと一緒に居た気もするが、実際に行動を共にしてたのってほんの二週間ほどなんだよな。
このまま彼女と別れてしまうのはもったいない気がする。だが俺と柳楽に、依頼以上の繋がりはない。もとの教師と生徒とに戻るだけだ。
寂しいが、仕方のないことだと自分に言い聞かせる。たとえその関係に戻っても、柳楽のためにできることはあるはずだから。
「にしても……」
やることがない。全身がまだ痛むが、同じ景色ばかり眺めているのも暇だ。俺は命令に拘束された英雄へ目を向けた。英雄はもはや抵抗をやめ、
神としての力を失ったら、彼はただの霊魂に過ぎないと柳楽は言っていた。狂った彼を放って置けば、あの
英雄は神の力を取り上げられてもなお、その異形の姿を変えることはない。もしかしたら、もう二度と人の姿には戻れないのかもしれなかった。
「…………」
俺は無言で立ち上がり、英雄に近づいた。目前に立っても襲って来る気配はない。
この彼の姿は、彼の狂いの証だ。つまり、俺の母親が非道を願ったために気高き平民の英雄は怪物となった。人に戻れなくなった。
じっと、
彼に手を伸ばしかけ、触れるべきでないと思い直す。代わりに俺は、頭に浮かんだその名を彼のために呼んだ。
「…………ユウサク」
英雄の身体がピクリと反応する。まだ柳楽の血を飲んだ効果が続いているらしい。柳楽の時と同じく、まるで彼の名を昔から知っていたかのように、音が俺の頭にすっと浮かんできた。原理は分からない。柳楽が言うには英雄の名を伝えた文献は戦中に失してしまっていたそうだから、確認を取ることもできない。
しかし、俺には確信があった。かの英雄、村人のために立ち上がり、死んだ後も人のためにあろうとした彼の名は、ユウサクという平凡なものだ。
もう誰も知らない、呼ばない名を、俺はもう一度呼ぶ。
「ユウサク……すまない。あなたがそうなったのは、ほとんど俺のせいなんだ」
彼の前に膝をつき、許しを請うように拳を握る。いや、そうじゃない。許しを欲しているわけじゃない。もう取り返しのつかない出来事に、せめて謝罪を贈りたかったのだ。
「俺が生まれなければ、母さんはあなたにあんな願いをかけたりしなかっただろう。誰も苦しまずに済んだんだ。俺のせいなんだ」
だから、もし恨むなら俺にしてくれ。それくらいしか、今まであなたの苦しみを一つも知らずに生きてきた責任を背負う方法が思いつかない。
込み上げてくる涙を俺は必死に我慢する。ここで泣くのは、卑怯な気がしたのだ。するとユウサクは腕にこれでもかと力を込め始めた。見るからに辛そうにしながら、地に縫い付けられた頭を震えながら上げる。
「ちょっ、無理すん――――」
俺は言葉を失った。ユウサクは泣いていた。さっきまで、そこには虚ろで血走った目があったのに、今はただ真っ暗な空洞があり、その穴から大粒の涙が流れ落ちていた。
ユウサクは、俺をじっと見上げて首を横に振る。その様子はまるで、俺の言葉を否定するような……。
「……自分を責めるなと言いたいのか、あなたは。――どこまで優しければ気が済むんだよっ」
人間の悪意に振り回され続けたくせに、そんな姿に貶められたくせに、まだ他人への思いやりを捨てないのか。……くそっ、泣きそうになったじゃないかよ。
「俺のことはいいんだよ。俺はな、こんな体質でもそれなりに楽しい人生送ってきたんだよ。汚いもん、人並み以上に見てきたけど、それ以上に、きっとたくさんの美しいものに気づけた。だから今の自分があるんだ。母さんも、友達も、憎まずに済んだんだ。この体質のおかげで人間の本性を知れたから」
理不尽に殴られたことがあった。銀行強盗に巻き込まれたことがあった。降ってきたカバンを受け止めたら、泥棒扱いされたことだってある。
何度も死にたくなるようなことがあった。何度も人間を恨みそうになった。けれど、その度に俺を助けてくれたのはやっぱり人間だったんだ。
「人間は汚いだけじゃない。他人を殺したいほど憎みながら、その人の善意に報いることができるような。そんな善性を誰もが隠し持ってる。それを信じられるようになっただけ、俺はこのあなたがくれた祝福に感謝してるよ」
涙を堪え、
ユウサクの涙が止まる。かと思うと、その姿が薄れ出した。柳楽の血の効果が切れたのかと思ったが、場に漂う呪詛がまだ見えるからそうではないらしい。ユウサクはすっと立ち上がり、天を
最後の
彼を見送って立ち上がると、ちょうど柳楽が戻ってきた。お札を全て貼り終えてきたようだ。
「うん? かの英雄はどうした?」
俺の傍らに立ち、柳楽が当たりを見渡す。英雄の姿が見えないことを不思議に思っているらしい。
「消えた。なんか成仏したみたいだぞ」
赤くなっているであろう目元を隠してありのままを告げると、柳楽が顔をさっと青ざめた。
「今成仏させてどうするのだね!」
「えっ、駄目だったのか?」
「駄目だろう!? まだ貴君の祝福を消させていないのだぞ!」
「あいつが消えたら自動で消えるとかじゃないのか?」
ゲームでよく見る呪いとかはだいたいそうだったぞ。そう軽く考えていたのは致命的な間違いだったらしい。柳楽は手をわなわなと震わせ絞り出すように説明した。
「神の祝福は与えた本人にしか消せないのだっ。たとえ彼が偽の神であってもそれは変わらない」
端的で、脳に直接響く言葉だった。後頭部を殴られたような衝撃が俺を襲う。ようやく事の重大さを理解する。
「……じゃあ、俺…………」
「一生不運なままだ」
そう俺から視線を逸らし、言いづらそうに吐き捨てる。柳楽は眉間にしわを寄せ悔し気に唇を噛んでいた。その顔は嘘を言っているようにはどうしても見えない。
「かっ、帰って来てくれユウサク――――!!」
気づくと俺は叫んでいた。声が森の中に反響する。それに応える者はどこにもいない。
俺の嘆きは、神の名代の居なくなった神社に
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