第四十二話 神にいと近き


 一文字目。“入”か“乃”に近い部首の部分は“人”の象形だ。つまりは人偏を表す。

 つくりの部分は天井から二本線を降ろし途中で二つを貫通する横棒を引いたような形だった。あれは“千”を表す。さっきの“人”の象形に“十”を加えた形だ。


 つまり一文字目は『せん』。南北に通じる道という意味も持つ、千に通用する今はほとんど使われない字だ。


 そして二文字目、上が“夭”を崩したもの。“夭”は若く美しいという意味の他に、若死にするという意味を持つ。

 そして下の“羊”から一本線を消したみたいな模様。これがまぎらわしかったのだ。この模様は“逆”からしんにょうを取っ払った形だ。意味は"逆"に同じ。つまりは“さからう”。


 若死にを示す夭を下の逆で打ち消し、結果“さいわい”に通じる。ゆえに二文字目は『こう』となる。


 柳楽なぎら紗希さきが神よりたまわりしいみなは『仟幸』。

 千とはたくさんという意味を持ち、幸は手枷をはめられる苦から逃れる意味を持つ。そう、彼女の名は、たくさんの幸福を示すのだ。


 だから読みは『チサキ』でいいはずだと見当を付けた。


 そうして呼ぶ。俺は彼女の本当の名をとっさに叫んだのだ。


 どうやら俺は当たりを引いたらしい。不運な俺にも運が回ってきたのか、場の不運を使い潰してもはや良いことしか起こらないのか。後者であって欲しいと今だけ思いながら、俺は名を呼ばれてガクンと項垂うなだれた柳楽を見守った。


 神さえ瞳に映す巫女の血を飲んだせいか、俺には彼女の変化がよく見えた。狂った英雄も、何かを感じたらしく動きを止める。


 柳楽は表情をしっした様子でゆらりと立ち上がった。虚ろな瞳が俺たちを映している。


 彼女の顔には急速に入れ墨のようなものが広がりつつあった。成長する植物のようにうごめく細いあざは、服が破けて露出した腹部や腕にも広がっていく。文字なのか模様なのか、それとも何かの象徴なのか。黒い入れ墨は全身に広がって動きを止めた。


 彼女がふっと息を吐くとひたいの中心に円が現れ、その周囲に底辺を円へ向けた三角形が並んだ。まるで太陽の図形のようだ。


 入れ墨の動きが完全に停止し、柳楽の瞳に光が戻った。目に映る全てを汚らわしいゴミだというように睥睨へいげいしながら、肩を鳴らしている。


 何やら確認を終えたらしい柳楽は転がっていた自分のリュックを拾い上げ、ついでというように英雄へ視線を向けた。


其方そち、誰の許しを得てこうべを上げている。ぬかづけ」


 一睨みで英雄は地にひれ伏した。大地に頭突きするような勢いで頭を石畳に叩き付ける。礼というよりは土下座だ。


 抵抗しようとしているのか呻き声が聞こえてくるが、その身体は鎖で地面に縫い付けられたかのように動かない。


 柳楽はその横を素知らぬ顔で抜けて、俺の傍らへ歩いて来た。引き裂かれ血に濡れた服が、いっそ衣装のようにはためく。


「……柳楽、なのか?」


 屈み込んで俺の顔を覗く彼女に、念のために訊いた。浮かぶ模様のせいか、雰囲気が別人のようだったから。そして何より、柳楽の瞳は元の黒から太陽を映したような金色に染まっているのだった。


 恐る恐る尋ねる俺に、柳楽は口元だけ微笑んで答える。


「うん。でも気分は羽衣はごろもを着たかぐや姫だよ」


「それ心失ってないか?」


「大丈夫だとも。自分を見失うほどではない」


 それ本当に大丈夫なのか? でも口調も表情も確かに柳楽だな。ちょっと安心した。


「柳楽は今どういう状況なんだ、それ」


 リュックを漁っている柳楽に、身体の模様を指して言う。すると彼女はそれに今気づいたように、指先で腹の模様をなぞった。


「はぁ、私が神になるとこうなるのか。いみなを解放したのは初めてだからな」


「神っ? えっ!?」


「ああいや、定義の話だよ。貴君が呼んだのは、神から与えられた私の真名まなだ。名は体を表すと以前言っていたろう? その名で呼ばれるということは、私が神から名を与えられるほどの存在であることを意味する。すなわち私は神にほど近い者ということになるのだ。それも、高位のな。だからこんなこともできる」


 言って取り出したのはミネラルウォーターのペットボトルだった。柳楽はそれのふたを外し、手をかざす。


月詠ツクヨミ神にささたてまつる」


 唇を動かさず、吐息だけで祝詞のりとのようなものを口ずさむ。すると水の底からごぽりと空気が湧き上がり、水が輝き始めた。


「よし、成功だ」


「なんか光ってるけど、なんだそれ。怖ぇ」


変若水をちみず。月にあるとされる若返りの水、その再現さ。急造だからそれほどの効力はないが、傷を癒す程度はわけない。さあ、飲みたまえ」


「そういうことならお前が先に使え」


 俺だって即死するほどの傷じゃない。めちゃくちゃ痛いし実は喋るのも辛いのだが、我慢できる。俺は教師だ。傷ついてる生徒を前にして先に助かろうとするなんて、俺が自分を許せない。


 というわけで目前に出されたペットボトルを押し出すが、背中の傷の痛みで力が出ないので簡単に押し返された。


「こんな所で強情を張るな。今の私ならこんなものいくらでも作れる。私の傷はどういうわけか治りかけだ。貴君の方が重症なのだから先に――――――あっ」


 柳楽が気づいた時にはもう遅かった。彼女の身体から模様が引っ込んでいく。額の太陽も消え失せた。瞳がすっと元の黒色に戻る。


 どうやら真名まなの効果が切れたらしい。ずっと柳楽の方から感じていた威圧感も消えている。柳楽としても効果がこれほど短いのは予想外だったようで、肩を震わせ屈辱に耐えるようにして俺の持つペットボトルを指差した。


「…………すまないっ、すこしだけ、分けてくれまいかっ」


「もう一回いみなを呼ぼうか?」


「恥っずかしいわ! ――っじゃなく、そんなことをしたら、貴君も私も生気を使い尽くして今度こそ死んでしまう」


「そしたらまた変若水をちみず作ってー、限界来たらまた呼んでー、じゃ駄目なのか」


「いつか破綻はたんするのが目に見える自転車操業だね……」


 柳楽は呆れたように言い、俺と目を合わせて苦笑する。何も変わらない柳楽の様子に、俺はホッと安堵するのだった。


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