第十九話 気配


「すまない、そこの脇道で一度止めてくれないかい」


 柳楽が険しい表情でそう言ったのは、杉岡神社まであと少しというところだった。


 言われた通りに横道に入る。そこは土が丸出しで舗装されていないあぜ道だった。何かあるのかと思えばただの行き止まりだ。道の下は崖になっている。


 ガードレールがないので慎重に車を停めると、柳楽は説明も惜しいという素早さでドアを開け放った。ただならない様子に俺もエンジンを切って後に続く。


 車の影になって一瞬柳楽を見失った。車を迂回うかいして辺りを見渡す。木陰の向こうにその姿はあった。


 柳楽は全神経を澄ませるように目頭に力を入れ、超然とした聖者のようなおもむきで木陰に佇んでいる。


 彼女の集中を乱すようで声をかけるのもはばかられたが、そうすると柳楽がそのままどこかへ行ってしまいそうな恐怖があった。


 胸騒ぎに駆り立てられるように、俺は彼女の横から顔を出す。


「……なにをやってるんだ?」


 柳楽は我に還った様子で俺を視認し、木陰から出た。


「いやな、瘴気しょうきの気配がどこかからするのだが、方向がわからなくてね」


「瘴気? なんだそりゃ」


 前も聴いた気がする。なんか汚いのか。でも空気は山特有の澄んだものだし、視界もクリアだ。俺には異常を感じ取れない。


 ということは、柳楽にしか感じ取れない何かがあるのだ。


「そうだな。貴君に一度見せたあの呪詛のようなものだ。呪詛には指向性があるのに対し、瘴気しょうきにはそれがない。それがこの一帯に薄く充満している。出所を探しているのだが、瘴気しょうきが一面にかかっていてその方向が分からない。まるできりのようだ」


「放っておいたらマズイのか?」


「おすすめはしないな。呪詛の類は耐性の無い者の気質を粗暴そぼうにさせる。喜多霧きたぎりさんを呪った女の様子を思い出してみたまえ。あれほど狂っていたのは呪詛に巻かれていたからだ。普段はあれほど攻撃的ではないはずだよ。広がる前に手を打たねば」


「確かに、この街の奴らがみんなアレみたいになったら最悪だな……」


 あの女一人でもめっちゃ怖かったからな。目付きは人を殺しそうだったし、怒りのせいで馬鹿力を発揮していた。解決できるならそれに越したことはない。


 しかし俺には呪詛なんか見えないしな。力になれそうにないか。


 いや、もう一回あの見鬼けんきというのをかけてもらえればいいのか? 女に巻き付いてた呪詛もそれで見えたのだから。鳥肌が立つほどキモかったのであんま見たくはないが。


 柳楽は俺の思考を読んだようにかぶりを振る。


「貴君の考えは分かるが、やめておけ。常人が見るものではない。あの術は何度もかけていると身体に馴染んでしまう。普段から魑魅ちみ魍魎もうりょうたぐいを見たくはないだろう。一歩間違えれば、山尾やまお先生のようにに魅入られて帰ってこれなくなる」


「……そうだな、まだ死にたくない。それに常時見えてると疲れそうだ」


 それとも慣れてしまうのだろうか。どちらにせよ普通の生活は送れなさそうだ。山尾先生がああいう結末を辿ってしまったように。


「そうだ、貴君はいま携帯灰皿を持っているかね。暇なら煙草たばこをふかしておくといい。煙草たばこは吸っていると狐に化かされないともいってな。邪気を払うのだよ。まあ、程度にはなる」


「邪気ねぇ」


 その割にはコイツで火傷やけどしたりするんだが。何度か禁煙しようとしたが失敗したしな。俺の場合量は多くないが、それでも止められない。携帯灰皿は必須アイテムだ。


 手伝えることもないようだし、助言に従って吸っとくか。


 しかしどうするかね。邪魔にならないよう景色でも見ておくか? 崖の下を覗き込んでみるが、木に埋め尽くされていて地面がほぼ見えないから面白くない。高さは五、六メートルってところか。落ちたら危ないな。


「春高先生、そっちはどうだ。何か見えないか?」


 危ないと考えたばかりなのに、柳楽がこっちに寄って来て並んで下を覗く。肩が触れるほどに近い。


 あぁヤバイ。こういうシチュエーションは俺にとって鬼門だ。一点に重さが集中し過ぎている。


「うん?」

「げっ」


 案の定、足元から地面のひび割れる音がしたと思った直後、浮遊感に襲われる。二人して崖の淵に近づきすぎて足元が崩れたのだ。


 急いで手を伸ばすも時すでに遅し。停車した車が視界から消え、身体は重力に導かれるまま本格的な落下に移行する。


「ひゃあああああ!?」


 耳元で悲鳴がする。柳楽も巻き込まれて一緒に落ちたのだ。彼女の手が俺の肩に触れていた。


 彼女を巻き込んでしまったことに舌打ちを漏らした。その間にも立ち並んだ木々は迫ってくる。下手すると枝に身体が貫かれかねない。


「こっなくそおおおおっ!!」


 俺は渾身こんしんの力で上体をひねり、柳楽を引き寄せ抱きしめた。俺の身体がクッションになるよう下にして、ぎゅっと目を閉じる。


 枝を折る音と崖肌に身を削られる痛みの中、柳楽の体温だけが血の気の引いた身体に暖かかった。


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