35. 刻は来たれり

 肩から口を放した大蛇は、最初に体色が薄れ、次いで細かな亀裂が全身に走る。

 一匹だった影蛇は、再度細かな子蛇の集団に分裂した。


 これが月輪の力に拠る攻撃なのは明らかだ。影を与えるのが逆効果なら、吸ってしまえばよいと考えたのだろう。

 衰弱した蛇を見ても、上七軒は無邪気に笑った。


「だからぁ、無駄無駄。もう食べられちゃいなよ」


 小さくとも蛇たちの食欲は衰えず、最も御馳走であろう詠月の体に群がる。

 白い着物は蛇で埋まり、月輪がその蛇を吸収した。

 いくら体長が小さくなろうが、影蛇は消滅せずに詠月を、月輪の持つ影を蝕む。

 徐々に闇が晴れていき、詠月の領域がその半径をジリジリと縮小させた。


 間断無く放たれる錦の矢が、薄くなった影を貫通して、詠月の上腕に当たる。

 矢の勢いを殺し切れずに上体が大きく揺れたのを、鷹峯は見逃さなかった。


「よくやった。奴の足を止めてこよう」

「まだ早くねえか?」

「あれなら領域外からでも刃が届く」


 領域は直径四メートルくらいか。黒眼の間合いにすっぽり入る大きさで、今回は詠月に逃げ場も存在しない。

 駆け出した鷹峯を見て、下鴨も再戦に加わった。


 領域が小さくなるにつれて、詠月の移動速度は上がったようだ。

 牛歩さながらだった足運びは、もう早歩きと言って差し支えなかろう。

 今出川御門から五十メートルほどの位置にまで進んだ詠月へ、鷹峯が迫る。


ときは来たれり」


 大声では無いがよく通る声が、鷹峯には明瞭に聞こえた。決戦の宣言なら、彼も望むところだ。

 領域の直前で円に走ろうとした時、詠月の影が強烈な勢いで噴き出した。

 瞬く間に影が膨張し、鷹峯は影に放り込まれる。


 彼を外へ連れ出そうと、下鴨が襟首を掴んで強引に方向転換させた。

 たたらを踏んだ鷹峯が、自分を引っ張った男へ振り返る。


「はっ、突っ込むのは俺の仕事だろ。お前は冷静に――」

「下鴨!」


 下鴨の胸から突き出した刃が、静かに引き消えた。

 信じられないという顔を浮かべたまま、下鴨は膝から突っ伏せる。


 後から来た吉田が、倒れた身体に飛び付いた。

 必至に呼びかける彼を、下鴨の手が弱々しく押す。

 行け――それだけ伝えた手は地に落ち、ぴくりとも動かなくなった。

 下鴨を引きずって領域から脱出しようとした彼の首へ、詠月の刀が振り下ろされる。


「させるかっ」


 鷹峯の薙刀が際どくも間に合い、当たった刃同士が弾け鳴った。

 領域内に踏み止まれば、詠月の攻撃は躱し切れないだろう。

 下鴨の上体を起こして両脇を抱える吉田を、鷹峯が怒鳴り付けた。


「もう助からん、退け!」

「放っとけるかよ!」


 水平に斬り掛かってきた刀へ、今度も鷹峯が応戦する。

 二つの刃が交錯した結果、詠月の狙いは逸れ、吉田は肩を斬られただけで済んだ。


「クソっ! 何でだよ!」


 ぱっくり裂けたジャケットの右肩を押さえて、吉田も領域外へと身をひるがえす。

 身じろぎしない下鴨を残し、鷹峯と吉田は影から離れた。


「あの野郎は何がしたいんだよ! 簡単に殺し過ぎだろ!」

「なぜ蛇が効かん……」


 激昂する吉田は無視して、鷹峯の目は影蛇を凝視する。

 詠月の影を浴びて、大蛇は復活した。

 なのにその蛇は首を懸命に振り回すだけで、詠月を噛もうとしていない。いや、噛みたくても、牙が届かないのだ。


 のたうつ大蛇は少しずつ詠月から引き離され、牽かれるように歩道へ乗り上げる。

 最後は御苑の壁をすり抜けて、中へ消えた。

 見れば八坂の花びらも、南へと吹き流されているようだ。


「詠月もここから中へ入る気だ。追うぞ」

「下鴨を放置できるかよ。先に行ってくれ」


 詠月が南へ曲がったため、影から出た下鴨は街灯に照らされてよく目立つ。

 隠形が完全に消失したせいで、気づいた車が前で停まり、ハザードを瞬かせていた。

 北西の交差点に警官たちが倒れており、そちらへは増援と救急車が到着する頃合いだ。


 詠月がふわりと浮いて壁を乗り越え、その少し西から鷹峯も追う。

 吉田は下鴨へ駆け戻り、乗用車のドライバーに救急車を呼んだことを確認した。


 突如、爆発音と地響きが今出川通りに轟く。

 音のした東へ向かうべきか、それとも詠月を追うべきか。

 吉田は決断を迫られた。

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