30. 大文字山

 速度に物を言わせて、ロクは敵の包囲をすり抜ける。

 身体にぶつかった影蛾はへしゃげ、撃たれた弾は大きく的を外した。


 今出川通に出た彼は、全速力で東を目指す。

 矢は東の空から飛んで来た。住民の安眠を妨げる矢の騒音は、出所を見極めるにも役立つ。

 上空へ注意を払いつつ、ロクは車道のセンターライン上をひた走った。

 鴨川を渡る時に少し減速したくらいで、あとは帯びる影を惜しみ無く発し、黒い突風となって進む。


 吉田山の北を抜け、哲学の道から銀閣寺へ。

 およそ二キロの射程ならこの辺りが発射地点だが、矢はさらに南東の山から射られていた。

 御所の東、約二・五キロ、大文字山中腹。

 どんな皮肉のつもりなのか、鹿苑寺は大文字送り火が燃やされる場所から撃ち下ろしているようだ。


 蛇行する山道に入っても、彼のスピードは落ちない。

 実体を極限まで減らしたロクには、登坂も平地を行くのと同じ。

 そんな吹き上がる黒風が止まったのは、左右の木陰から影が突進してきたからだった。

 左からは小振りのついが、右からは下鴨の物に似た爪が振り下ろされる。


大宮おおみや上賀茂かみがもか。どけっ!」


 急停止からのバックステップで攻撃を避け、ロクは鳶口を水平に掲げた。

 回転しながら突っ込み、二人の男を同時に縫う――その試みは実行されることなく、宙で後転して大きく退く。


 彼が先までいた場所に、鹿苑寺の矢が刺さった。

 御所にいた男たちと出で立ちはそっくりでも、縫い具を持つ二人の影は濃い。

 影縫いと呼んでも、差し支えは無いだろう。


 但し、どちらも宇治から強奪された縫い具であり、使い方に習熟しているはずがなかった。

 下鴨クラスならまだしも、初心者にロクの足止めは無理だ。鹿苑寺の援護射撃が無ければ、だが。


 接近すれば探知されると、承知の上での作戦だ。これで御所への攻撃が止むなら、八坂も一息つける。

 彼を襲う二射目を、鳶口で叩き落とす。

 その隙を突いて近づいた新人大宮が、ロクの側頭部を狙って鎚を振った。


 頭を下げ、紙一重で鎚を避けた彼は、大宮の股の間を影となって吹き抜ける。

 鳶口が足首に引っ掛かると、大宮は爪先を浮かせて逃れようとしたが、ロクの方が早い。

 足を取られてつんのめった男の背中へ、反転したロクが追撃を――する必要は無かった。

 鹿苑寺の矢が大宮ごと彼を縫おうと飛来し、寸でのところで真横に跳ぶ。


 鹿苑寺までは、三百メートルくらいか。

 中距離からの攻撃だと、射る間隔も精度も飛躍的に向上した。錦の矢のように曲がったりはしないので、まだ対処はしやすい。


 ばたりと倒れた大宮の後ろから、上賀茂が組み付いてくる。

 爪で縫う気はさらさら無いらしく、影を絡めてロクの動きを封じようとした。

 そこへ再び矢が強襲し、上賀茂の頭を後ろから射抜く。


 平然と味方を犠牲にするやり方は鹿苑寺の性癖か、詠月の教えなのか。

 重しの付いた身では、回避が一拍遅れた。

 男を貫通した影のやじりが、その額から現れてロクの頬をえぐる。


 肉体に損傷は無いが、彼の影は矢に引っ張られて飴細工の如く後方へ伸びた。

 力を失った上賀茂を蹴り飛ばし、紐状の影を鳶口で引き裂く。ぶちん、と身をちぎる音が聞こえるようだ。


 鎚と爪、二つの縫い具を気にしつつもロクは先を急ぐ。

 木々が切り倒された山の斜面、盆には送り火が灯る開けた中腹が、道の先に揺らいで見えた。

 餌にたかる虫のようにうごめく影は、人の群れだとすぐに分かる。

 矢をかわすために右へ左へと激しく軌跡を曲げながら、彼は送り火の点灯場所へ走り込んだ。


 鹿苑寺は人垣の奥に控えるはず。

 守る連中を薙ぎ倒して一気に詰め寄ろうと、鳶口を逆手に持ち替える。

 このまま回転して突っ切れば刃付きの旋風となり、影落ちの群れに大穴を穿うがてよう。


 柄を握る手に力を込めたロクだったが、間近で見た影落ちに足を止めた。

 精気の無い白衣の看護師は、目の焦点も怪しい。

 その看護師の腹を貫いた矢から、辛うじて身体を捻り逃げる。


 見れば御所にいた作業服は一人もおらず、寝間着や白衣ばかりが海藻さながらに揺れるのみ。

 両手をだらりと垂らし、彼へ向く顔も無い。

 ただ人数は十や二十では済まず、駅前の雑踏も斯くやという密集具合だった。

 射られた看護師がくずおれた直後、矢の代わりに甲高い女の声が響く。


「やっぱり烏丸が来た!」

「盾を作ったもりか。悪趣味な野郎だ」

「影を浴びて混濁した只の人間よ。掟ではどうするんだったかしら?」


 影縫いの指針となる九十九つくもの掟。

 人に交わるべからず、影に屈することなかれ。

 縫うは影のみ、善悪は思慮のほかへ置くべし。


「影落ち未満で、抵抗もしない。殺しはしないわよねえ?」

「外道が。俺が殺せないとでも――」

「掟じゃ縫って助けるんでしょ。破るの? 自分・・が作った掟なのに!」


 事情通なのは詠月の入れ知恵だろう。

 ロクは人を殺したくない、それは事実だ。だからと言って、掟に殉じるのも馬鹿らしい。

 あくまで掟は行動指針、影縫いが人の世で穏健に暮らすためのルールである。


 人としての名は捨て、影である自覚を持つこと。

 無駄な殺生は控え、一般社会とは距離を置くこと。

 決して影縫い同士で争わぬこと。


 掟が絶対に守らねばならない鉄の規則なら、人として生きたがる吉田はとっくに処罰対象だ。

 掟破りとして罰せられるべきなのは、同じ影縫いを殺す草士詠月、そしてこの鹿苑寺。

 それを恣意的と言いたければ言え――ロクは言葉にはせずに、行動で示す。


 いくら人を並べたところで、彼がその間を抜けるのは容易。

 若い医者を、患者を、看護師を避けて、女の声がした方へ突風が吹く。

 風の通った地表には、黒い稲妻模様が浮かんだ。


 大弓を持つ長い髪の女が、最奥に立つ。

 矢を放つ時間など与えはしない。女が弓を引こうが構わずに、ロクは正面から鳶口を振り下ろした。


 八坂に似た華奢な体へ、その首筋へ、くちばしが突き刺さる。

 女に纏っていた影が散り、本来の姿が現れた。眼鏡を掛けた中年の男。

 矢は後ろ・・から飛来した。


「なんだ、殺しちゃうのかあ」


 脇腹を貫いた矢が、ロクの影を引っ張って地面へ縫い留める。

 またもや自分の影を鳶口で引きちぎり、彼は背後へ向き直った。


「どこまでも腐った女だ」

「女の悪口は感心しないわね」


 写し影――自分の影を分割して、他者へ憑依させる技術だ。

 膨大な影を必要とする写し影は、もう使える者がいないとされていた。これも月輪が与えた能力か。


「さあ、隠れんぼしましょ。鬼ごっこかしら」


 鹿苑寺が採用した作戦を、彼もここで理解する。

 集められた人々は盾でなく、鹿苑寺が隠れるためのしろであった。

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