31. 鹿苑寺
憑依で偽った姿は、幻影に過ぎない。
矢を射るのはあくまで実体であり、放つ瞬間を捉えれば鹿苑寺を縫える。
必要なのは、憑依を上回るスピードだ。
斜面を駆け上がったロクは、弓を持つ女の足元を狙う。
鳶口が影を縫ったタイミングに合わせて、鹿苑寺の矢は正確に飛んできた。
彼は右からふくらはぎを射抜かれ、目の前では縞の寝間着が膝を折る。
自分を縫った影をまたも断ち切り、次は右へと走った。
ロクが縫う瞬間が狙い時だと、鹿苑寺はよく分かっている。
憑依の手際も驚異的で、彼が反撃するより速いと認めるしかなかった。
右奥に駆けたロクは、鹿苑寺の姿を狙わずに手前の看護師を縫って倒す。
鹿苑寺の予想とは異なる動きだったろうが、矢はきっちりと肩へ当たった。
「みんなを助ける気? 矢で針鼠みたいになっても知らないわよ」
「進路にいられると邪魔なんだよ」
「あら、ひどーい」
山を下り、鹿苑寺の隣に立つ子供を縫って左へ。
腰の曲がった老人を縫い、学生らしき女を縫い、反対側へ走り戻って白衣の男を縫い付ける。
憑依されていない者を延々と倒すロクヘ、鹿苑寺は賞賛を送った。
「よくやるわねえ。でも、息が荒れてきてるわよ」
縫った人数分だけ影矢を受け、さしものロクにもダメージが出る。
並の影縫いなら一発で意識を飛ばされる矢だ。
いくら芯を外して受けても、限度というものがあった。
「そろそろだな」
「そうね。次はもっとよく狙うわ」
最後の矢は、ロクの真後ろから射られた。
ところが彼はこの時、憑依者には目もくれず、横へと走り出す。
黒い影のラインが弧を成し、地面の大文字模様を囲った。
邪魔者を排除して彼が作った軌跡は、斜面に見事な真円を描く。
山に浮かび上がる鳶の黒眼。
さらにもう一周、内側を走り抜けたロクによって、二重の黒眼が完成した。
無数の鳶口が黒線に沿って立ち並び、円の中へと打ち下ろされる。
細かな狙いなど問わない、影の殲滅だ。
鳶口は触れた影を縫い尽くし、ドミノ倒しのように人の群れが崩れた。
「なんて男なの……」
「縫えたのは三分の二ってとこか。だいぶスッキリしたな」
まだ棒立ちしているのは、斜面の中心部にいる三十人ほど。
鹿苑寺は早々に黒眼から外へ跳び退いたため、ポツンと一人、山の
人々を挟み、ロクは斜面の上から彼女を見下ろす。
「まだ憑依で逃げてみるか? 間に合わんだろうが」
鹿苑寺の攻撃に加えて大技を使ったことで、ロクは自分の影をかなり消耗した。
黒眼で縫った影はどれも弱く、回復に給するには心許ない。
気取られまいと強がってはみたものの、ケリを付けるのに後少し燃料が欲しかった。
「私を覚えてないの?」
「お前を?」
いきなりの質問に、彼は女の顔へ目を凝らす。
細い眉、尖った顎、血の気の薄い青白い肌。むさ苦しい大男だった先代の鹿苑寺とは、何も共通点が無い。
ロクの知り合いと言えば、影縫いばかり。
その中から似た顔を探す彼へ、鹿苑寺はヒントを与えた。
「六年前、寝屋川」
「……あの惨殺事件の生き残りか」
親子三人が暮らす家へ、深夜、二人組の強盗が押し入る。
手段を選ばない外国籍の男たちは、就寝中の家族をナイフで滅多刺しにしてから家捜しに取り掛かった。
両親は即死したが、翌朝発見された中学生の娘はまだ息があり、病院へ急送される。
肺と腹を刺されながら一命を取り留めたのは、奇跡に近い。
しかし、意識を回復した少女は、事件のフラッシュバックと両親の死に心を病んだ。
こんな脆弱な人間ほど、影に落ちやすい。
黒く染まった彼女の病室を訪れ、影を縫ったのはロクだ。
「次の日に目が覚めたら、みんな忘れてた。事件どころか、親の顔さえあやふや。ショックによる記憶障害だと診断されたわ」
「恨むなら犯人だろうが、まあ忘れたなら仕方ないな」
「誰も恨んだりしてない。全部忘れたってのは嘘ね。一つだけはっきり覚えてた」
ベッドの上で動悸と頭痛に苛まれる彼女の元へ、暗い影が差し込む。
カラスのような、鷹のような、大きく翼を広げた黒い影が。
影の中から歩み出た男は、彼女をくちばしで突き、悪夢から
「そこからが大変だった。あの男は誰だったのか。私は何をされたのか。噂話から怪談まで、徹底的に調べた」
「稀にそんな奴もいる。俺ごと忘れておけばいいものを」
「似たような経験をした人間を探して回っていたら、真っ黒な影がやって来たの」
訪れた影は、ロクではない。詠月だった。
鹿苑寺は誇らしげに弓を頭上に掲げ、これがあれば私も影が縫える、と喜悦の声を上げた。
影縫いの存在を知った彼女は、影縫いに憧れ、自分もそうなりたいと願う。
白くなった心に、ロクだけが深く刻まれたせいか。それとも、過酷な運命が未だ彼女に傷痕を残していたためか。
いずれにせよ、詠月はそれを成す力を与える。
彼女は再び影へ落ち、大弓の縫い具を渡された。
鹿苑寺の弓から、影の炎が沸き立つ。
彼女は決着を付けるため、己の影が満ちるのを待っていた。
ロクもそれは同じ。少ない時間ではあったが、一撃分の影は掻き集められた。
掲げた弓に張られた虚影の弦を、鹿苑寺は真下へ引き下ろす。
彼女が右手の弦を手放した瞬間、夜天へ向けて黒い奔流が噴き上がった。
けたたましい鳴き声と共に、影矢の群れが垂直に昇る。
百叉の嚆矢――一度空へ向かった矢は、三十メートルほどで勢いを無くし反転した。
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