06. 奈良路
錦には直線コースを突き切ることが出来ないので、山の際に沿う国道を行く。
下がアスファルトでないと、彼女は転びかねない。
この隠形マラソンには、体力自慢の彼女もノックアウト寸前だ。
残り約十キロの地点で、遂に錦は音を上げた。
「も、もう、無理」
「ちっとは速くなったけど、消耗し過ぎだ」
常に周囲へ目を配らせていたロクと違い、錦は前だけを見て彼に追い
ロクの小走りは持久走さながらで、彼女の全力を要求される。
「お前の矢は、全く俺に通じなかった」
「あっ、うん……」
「下手くそだからだ。影圧は婆さんが選んだだけのことはあるが、使い方がなってない」
ロクの断言には、錦も頷くしかない。
彼女の持つ縫い具は、元来、小さな弓だった。ボウガンの形に改造したのは、細工の得意な先代の仕業だ。
非力な者でも簡単に扱えるようになった代わりに、熟達はより難しくなったとロクは予想した。
影弓が射るのは物理的な矢ではなく、影そのもの。
矢のイメージを頭から追い払い、影を身体から伸ばして射抜けと、彼はアドバイスする。
「目で射るな、か。母も言ってた」
「走るのも同じだ。身体全体を影で包んでしまえ」
「んー。意味は理解できるんだけどなあ」
二人は言葉を交わしながら、車の通らない国道を並んで歩く。
もう少しすれば、未明に活動を始めるトラックが日の出を予告することだろう。
ロクは明るくなる前に着きたかったので、このペースでは間に合うかギリギリだ。
「目的地は、奈良市のどこ?」
「唐招提寺や平城京跡も見回りたかったが、時間が足りないな。このまま北東へ向かう」
「北っていうと、えーっと、奈良公園?」
「違う」
詠月の目的を推し量り、阿東の考えも合わせて考慮すれば、自然と重要地点は絞られる。
「東大寺正倉院、その
初めて聞く名前に、錦はロクの顔を見た。
奈良公園を抜けた先に、国宝級の物品を納めた正倉院が建つ。
平城の都にはいくつも正倉院が存在したが、現在も残るのは東大寺のものだけだ。
十八世紀に着工された裏倉は明治にひとまず完成し、現在は全棟が地下化された。
そこに
所持者がいなくなった縫い具、そしてその原材料と成り得る黒鋼。
重い
時折、背後を振り向きつつ、ロクは裏倉の内実を語って歩いた。
影縫いといえど用の有る場所ではなく、案外に訪れたことの無い者が多い。
ロクが詳しいのは、何度か阿東に乞われて収蔵物のチェックを行ったからだ。
詠月が故意に影落ちを作り出していると仮定する。
落とされた者の中には、耐性の強い人間もいるだろう。稀だろうが、影が縫えるほどの耐性持ちだって皆無ではない。
その場合、黒鋼はともかく、縫い具は強力な武器となる。
詠月の狙いは裏倉にある縫い具、明日香村などに出没した連中は陽動ではないか。
ロクの推理に、錦は眉根を寄せて質問した。
「得体の知れない影縫いを作るって、物騒な話。でも、どうしてそんなことをするの?」
「目的か……」
文明の光が闇を薄めたとしても、その分、人口は昔より増加した。
影に落ちる対象は増え、縫える者は徐々に減る。なら新たに影縫いを補充するのは、本来なら喜ぶべきことだ。
だがそう楽観できない理由がロクには、そして阿東にもあった。
「草士詠月は出自も年齢も不明、影縫いなのかも確証は無い」
「使う縫い具は?」
「見た奴がいない。ただ、圧倒的な影の濃さだったな」
「ロクは会ったことあるの?」
「会った、とは言えん。影を見ただけだ、
「それって、縫い殺し……」
「そうだ」
かつて、三人の影縫いが相次いで殺された。決して表立っては報道されない、縫い殺しと呼ばれる連続殺人事件だ。
伊勢、伊吹山、そして最後が伏見。
偶然、その伏見にいたロクは、巨大な
彼が到着した時、襲われた松原は既に事切れ、犯人であろう影は去り行くところだった。
もちろん後を追いかけたが、影は宇治川の末に溶けて消える。
ロクの追跡を振り切れる犯人、それが詠月だろうと教えたのは、まだ局を統括する前の阿東だ。
世を呪い、影縫いを恨み、国に仇を為す男。詠月であるという確証には乏しいらしいが、それほどの影が他にも暗躍しているとすれば、更なる悪夢となろう。
少なくとも局は主敵を詠月と目し、その動向を探っている。
「誰であれ、影をバラ撒いているのは事実だ。仲間を募っているんだろう」
「影縫いを恨んでいるんだ……。知人を縫われたとかかなあ」
「詠月という男は、局と因縁がありそうだけどな。動機を考えるより、縫うのが先だ」
暁光が照らすロクのコートは、少し紺地に色を変えた。
闇では黒に見えた布地は、墨流しで細かく模様の付いた
黒一色よりは洒落ており、物騒な話題を嫌った錦はコートを褒めてみせた。
「カッコいいね、それ」
「コートか? まあ、気に入ってる」
服なんてどうでもいい、と返されるのを予想していた彼女は、しばらく楽しそうに影縫いファッションのあり方を話題にした。
これにはロクも乗らず、さりとて黙るように叱ったりはしない。
歩く二人の右側には、ここずっと林が続いていた。
その林の中へ折れる
小路の両側には石灯篭が立ち、車止めのポールが歩行者以外の進入を拒む。
脇の案内板を読んで、錦も自分がどこに来たかを知った。
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