36. 嵐山
大文字山を駆け下りたロクは、今出川通を西進する。
平地からでは見づらいものの、同じ通りの先に影の塊は在った。その大きさから考えて、詠月なのは確定だろう。
上七軒の黒大蛇で足を奪い、弱ったところを鷹峯たちが接近戦で片付ける――そんなシナリオをロクは思い描いていた。
彼が間に合うようなら、背後から奇襲もかけられる。
吉田山の脇を通り過ぎ、京都大学のキャンパスを抜ければ、見通しも良くなった。
詠月は御所の北東角辺りにいると思われ、山で確認した場所からほとんど動いていない。
上七軒の活躍を期待しながら、彼は鴨川を横断する賀茂大橋に差し掛かった。
橋の中央に溜まる人影は、詠月の背後を守る分隊か。
迂回するより突破した方が早いと、ロクはスピードを緩めずに直進する。
「撃てぇっ!」
聞き覚えのある声が号令を発し、影弾が斉射された。
川の上というのは、あまり面白くない状況だ。敵もそれを分かって、ここでロクを待ち受けたのだろう。
橋幅一杯にジグザグで走り、弾の直撃を回避して進む。
先を行く軽自動車が、ヘッドライトを撃ち抜かれて急ブレーキを掛けた。
運転席から降りた男を縫い倒し、開いたドアを防弾の盾に使う。
流水へ飛び下りれば動きが鈍るのは必然であり、さしもの彼もそれは避けたい。ならば上を行く。
銃撃が止んだ隙を突いて飛び出したロクは、すかさず上空へ跳んだ。
弱い影が四、濃い影が二。
敵の数を確かめ、その集団の中へ降り立とうとした彼だったが、目論みを外される。
一つを残し、影は橋から急いで退却を始めた。
着地に合わせて突き下ろした鳶口を、奇妙な爪が受け止める。
派手な衝突音を響かせた二人は、揃ってバックステップで距離を取った。
柄は八十センチほど、その先端には十二に分かれた細かい
ロクの鳶口を大振りにして、くちばし部分を裂き割ったような形状だ。
「声からして、銀林が相手だと思ったが」
「大太刀で練習したのは隊長だけじゃない。今はあの人が使ってるだけだ」
影縫いと違い、武器に
縫い具の名で呼ぶなとも言いたげだ。しかし、ロクが知ったことではない。
千手鉤を持つこの迷彩服の男は、彼にとっては
背はロクより低く、その分、得物は鳶口より長い。
さっさと
鳶口の現れなかった方向へ退避して、嵐山は難を逃れる。
縫い具、嵐山には独鈷杵のような拘束力も、大太刀のような威力も無い。
あるのは広範囲に
二人は位置取りを交換した形になり、今のロクは御所寄りに立つ。
「悪いが相手は後回しだ」
「行かせるか!」
御所を優先しようと考えたロクだったが、先に嵐山は高く千手鉤を頭上に掲げた。
橋の
決してロクを狙い打ちした作戦ではない。
鹿苑寺が影縫いを殲滅出来れば、詠月にはそれがベストだったであろう。
彼女を倒すような強敵がいた場合は、この賀茂大橋が影縫いの増援を阻む。京の街へ皆を集めながら、御所へ集中攻撃されるのは嫌がった。
全ては戦闘に
数日前に仕掛けられた爆薬が、賀茂大橋の
最初に欄干が倒れ、アスファルトは幾重にも断裂した。
橋脚に渡された路面が、
この状況でも岸へ渡り切ってしまおうと跳ぶロクを、千手鉤が後ろから引き留めた。
笑う嵐山へ振り返りつつ、ロクは影を全力で纏う。
ロクには不運なことに、先週は雨の日が続き、川の水かさは未だ多い。
橋の構造材と共に、彼は鴨川へ落下した。
コンクリートや滑落した自動車が、ロクの上にものしかかる。
実体を可能な限り薄めた彼は押し潰されるのを防いだが、肉体への打撲は深刻なレベルだ。
骨が砕けなかったのは、運が良かったとしか言いようが無い。
背中から川面に叩き付けられつつも、流れを利用して橋の直下から脱する。
影を集めて怪我を回復させたいのに、流れる水が邪魔だ。
濁った川下で立ち上がった彼へ、影弾が撃ち込まれた。
右胸に弾を受けて川へ倒れたロクは、少し下流へと運ばれる。
再び立った彼をまた弾が襲ったが、これは鳶口が弾き返した。
「なんて奴だ。落ちようが撃たれようが、死なんとはな」
西の岸辺から、銀林が呆れて叫ぶ。
アサルトライフルを持つ者は四人、銀林は夜間用スコープを手に彼らの後方からロクを観察していた。
胸の下まで水に浸かったロクは、見るからに動きが鈍い。
ロクが二発目を弾けたのは来ると予期していたからで、それも影が弱まった今では運任せだ。
銃撃では百発百中と行かないのが、せめてもの救いであろう。
三発目、四発目はロクの横へ外れ、水面に着弾して飛沫を散らす。
彼はこの地点で上陸するのを諦め、川へ潜って下流へ移動することにした。
あとは銀林たちが、水面下の彼をどれくらい追跡出来るかで成否が決まる。
不愉快な思いをぐっと呑み込み、ロクは頭を水の下へ潜らせた。
泳ぐのではなく、身を丸めて川に任せる。
影は鴨川と混じり、水と同速で南へ流れ行く――はずだった。
しかしながら、十秒も経たない内に息苦しくなり、頭を水の上へと出す。
河川だけはダメだった。
最悪なのは海でも、ほとんど近寄る必要はない。比べて川はどこにでも在り、己の影を摘んでちぎっていく。
影縫いなら誰もが流水を嫌って当たり前だろうが、ロクは極端にこれを苦手としていた。
濡れた翼では、飛び立てないからだ。
銀林はきっちり岸を南下して、浮上したロクを認めると射撃を命じた。
四発が一斉に撃たれ、三発は水面に当たる。
残る一発は左肩に命中し、受け止めたコートから黒い粉が舞った。
もう一度潜り、今度は流れに逆らって岸を目指す。
距離を稼ぐのが難しいが、川幅からして三度も潜れば辿り着けるはずだ。
つまり、水の束縛から逃れるまでに、狙撃される危険は二度あるということ。
近づくにつれて弾の精度は上がるだろう。
一発は耐えたが、衰えた影で何発も凌げるのか、ロクにも答えようが無い。
鳶口の柄を両手で握り、川底を蹴って立ち上がる。
岸からの銃撃を防ぐべく流れ抜ける影を少しでも繋ぎ止め、空中の闇を身に集めた。
弾は来ない。
代わりにロクヘ届いたのは、吉田の雄叫びと激しい
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