11. 松原

「鬱陶しいっ!」


 後ろ髪を引っ張られるというのは、まさに今のロクに適切な表現だ。

 通り過ぎた彼から伸びる残影を、松原は慌てることなく地に縫った。


 独鈷杵に薄い影の端を押さえられ、走るロクはガクンとのけ反る。

 転びそうになったのを横転で誤魔化し、木葉まみれになりながら松原へと向き直った。


 縫い具はそれぞれ特徴があり、物によって使い方も利点も違う。

 錦の弓なら射程の長さが売りだろうし、独鈷杵には他を圧倒する捕捉力があった。


 影矢をすり抜けたロクも独鈷杵の爪からは逃れられず、裏倉まで後少しという地点で松原の相手を余儀なくされる。

 工作機械の騒音が止んだのを受けて、松原は口角を上げた。


「扉が開いたな。お前の縫い具も頂いておこう」

「厚かましいのは顔だけにしとけ」


 鳶口を腰のフックに戻したロクは、改めて松原の姿を観察する。

 筋肉質で首も太く、やや前傾した姿勢も堂に入って見えた。

 耳が潰れたように丸まっているのは、組技を主体とした武術でも修めた結果だろう。

 接近戦闘に自信があるのも頷ける。


 縫い具を仕舞ったロクを逆に警戒したらしく、松原は慎重に摺り足で間合いを詰めた。

 より頭を下げ、軽く左右にフェイントを混ぜつつ、攻撃のタイミングを計っているようだ。

 ロクは棒立ちしたまま、そんな松原を静かに見下ろす。


 組み伏せてから独鈷杵で殴る、といった戦法なのであろう、ロクの腰辺りに向けて、松原のタックルが敢行された。

 鍛えたと言っても、所詮は常人を相手にした武道だ。影と組み合うなど、水面に映る月をすくおうとするのに等しい。

 一瞬で黒く染まったロクを、それでも掴もうと松原の左手が伸びる。


 手は宙を切り、頭は目標を通り抜けた。

 水平にいだ独鈷杵はしかし、ロクの影を打ち据え、黒い飛沫が火花のように散る。

 しつこく殴られ続ければ、ロクであってもダメージは蓄積するだろう。


 では、この松原をどうあしらえばよいか。

 引き離すのが難しいのなら、さらに間合いの内側へと侵入すればよい。身を摺り合わせるほどの、極端な密着戦へ。


 松原の右腕に、散ったはずの影が再び集まる。

 腕に絡んだ影は渦を巻き、大蛇と化して胸元へと這い上った。

 腕を振り回したところで影は外れやしない。


「クソっ、離せ!」


 胸を一巻きした影は首に達し、気道を潰すべくギリギリと締めつける。

 自傷行為としりつつも、松原は拘束から脱出するために自分の肩口を独鈷杵で突いた。


 またもや散り飛んだ影は、松原の背後で人の形を作る。

 自らの攻撃で喘ぐ松原の脹脛ふくらはぎを、ロクは意趣返しとばかりに斜め上から踏み蹴った。


 膝から崩れた男を、今度こそ鳶口が襲う。

 松原の背中、その中央。

 最も濃い影を宿す核心を、黒鋼のくちばしが貫いた。

 鳶口は体を通り抜けて地面に至り、松原の影を刺し留める。


「がぁっ!」

「無理に動くな。影が失せるぞ」


 縫い締めはせず、留めただけだ。

 尋ねたいことがあったロクは、無駄を承知で松原に問う。


「詠月の目的は何だ?」

「化けもんが……」


 人を超えたロクの戦い方を味わい、松原の目に曇りが差した。

 闇に親しく交じる影縫いが、死を恐れることはない。

 怯えはとっくに捨てた彼らだったが、理解し難いロクの能力には困惑を隠せなかった。


「烏丸ロク、か。お前ほどの影縫いが、なぜ阿東に味方するんだ?」

「別に仲間となったわけじゃない」

「なぜの味方をする?」


 松原の言わんとする意味を、ロクも察する。

 なぜ影縫いは影を討つのか。人の世の平安を守るため?


 光が全てを照らし尽くした暁には、もう影の居場所は消え失せてしまうだろう。

 何かの加減で、そんな世界も来るかもしれない。安寧の光に包まれた人々に、影縫いは不要だ。

 ロクたちもまた影には違いなく、縫う対象が減れば存在意義を無くす矛盾をはらむ。


「暇潰しにもならない命題だ。哲学がしたいなら、一人でやれ」

かび臭い影縫いには分からんか」


 松原は上体をよじり、強引に鳶口からその身を引き剥がそうとした。

 裂けた影の隙間から、ちりちりと黒い粉が湧き立つ。


 自害したいというのなら、ロクに止める義理は無い。

 深く影に浸蝕された者が縫われれば、精神の白紙化のみならず肉体の死を招くであろう。

 介錯くらいはしてやろうと、ロクが柄を握る手に力を込めた時、独鈷杵が松原の腹に刺さる。


 あろうことか松原は鳶口の力に逆らい、自分で自分に縫い具を突き立てた。

 切腹さながらに独鈷杵を真横へ引いて、影を切り裂く。

 腹の内に篭る影を寸断した結果、ロクの縫いから解き放たれ、松原はフラフラと後退した。


 独鈷杵で影だけをちぎったのだから、肉も皮も無傷ではある。

 しかし、彼らにとっては影は本体も同然、命を削る行為にさすがのロクも目を見張った。


「こんな馬鹿げた脱出方法は初めて見た。トカゲ並の生命力だな」

「お前らとは、影の濃さが違う。縫い殺せると思うなよ」


 足をバタつかせながらも、松原は独鈷杵を前に突き出す。

 再度ロクへ攻撃しようと踏み込んだ瞬間、その足は地に付く前に引き倒された。


「くっ!」

「私が相手になろう、松原」


 足に絡み付いた黒い紐が、近づくモヤへと縮み戻る。

 かすりの着物に、肩まで届く長髪。書生を思わせる細面が、隠形を解いて現れた。


「また貴様か、夷川」

「友の縫い具を返してもらうぞ」


 夷川の得物は鋼の短筒で、松原の独鈷杵より一回り小さい。

 爪は無く、握ればやや膨らんだ丸い両側がはみ出るミニチュアの鉄アレイといった形状である。

 この一端から影の紐が伸び、対象を括って力を吸う。

 羂索けんさくとも呼ばれる、捕縛にけた縫い具だった。


 伸び来る紐を、松原が独鈷杵で打ち払う。

 加勢しようとしたロクを、夷川が「行け」と一言で制した。


 夷川にも込み入った事情がありそうだが、与えられたチャンスをフイにすることはあるまい。

 松原の盛大な舌打ちを背に浴びつつ、ロクは裏倉へと駆けた。

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