01. 影

 二日続いた雨が上がり、ようやく雲間に月が覗く。

 夜半を過ぎても、蒸した大気が肌にへばり付いて不愉快だ。


 奈良、飛鳥駅から三キロは優に歩いた山の奥、展望台から道を外れた先に男はいた。

 しいの茂る林は、枯れ葉と下草で獣道すら定かではない。

 ライトで照らそうが、人を拒む闇が深い。


 うつむき加減で歩いていた男は、岩を見つけて立ち止まった。

 膝を折り、地面から突き出た異物へ手を添える。

 大きな花崗岩が埋まっているらしく、表に現れた一端だけでもベンチ二脚ほどの幅があった。


 男の手が岩の上を往復し、苔や土を払うと、一直線に切り立った稜線がはっきりとする。

 随分と風化してはいるものの、直角のエッジは人の手による加工を思わせた。


 無地の紺シャツに綿パンという出で立ちの男は、派手に赤い登山用のリュックを背負う。

 水筒にしては小さいボトルが腰に、リュックのサイドには金属製の熊手がベルトで固定されていた。

 そのリュックを下へ置き、中から手帳を取り出して、ペンライトで照らしてページを繰る。

 書いてあるのは、メモか地図か。


 周囲と手帳を交互に見比べていた男は、しばらくしてリュックを掴み山手へ歩き始めた。

 五メートルほど登り、今度は折り畳んだ紙片を引っ張り出す。

 一辺が肩幅の倍はある正方の紙は真っ白で、夜陰でもよく目立った。


 膝立ちして白紙を地面に広げた男は、頭を項垂うなだれて凝視する。

 位置が気に入らなかったのか、数十センチ横へズラしてもう一度。

 次に前方へ移動させ、ようやく男は納得して紙を仕舞った。


 代わりに大振りな熊手をリュックから出し、右手で握って地面へ振るう。

 あとは一心に地面を掘るだけだ。


 枯れ葉を脇に退け、雑草をむしって穴の横へ。

 左手でも土をつかんで投げ、穴を広げてまた一振り。

 ザクザクと地に刺さる熊手と、ばら撒かれる土くれの立てる音が、一定のリズムを山に刻んだ。


 洗面器ほどの穴が完成すると男は手を止めて、顔を穴の中へと極端に寄せる。

 汚れることなど、毛の先ほどもいとわない。

 ハサミムシが指から這い上がろうが無視して、その姿勢を気の済むまで保った。


「これは……」


 顔を上げ、ほんの一欠けらの粒をつまみ上げる。

 闇に混じり消えそうな、黒々とした小石だった。


 石を穴の外へ置き、後ろへ向き直った男は、再びリュックの中へ手を入れる。

 白紙を敷き、その上へ小石を乗せた瞬間、小石を中心にして周りの紙が変色した。

 拳サイズの黒に、男の口許が緩む。


「こんな大きい・・・ものが、まだあったとは」


 腰ベルトにカラビナで提げられた乳白色のポリボトルを掴み、左手の親指で蓋を弾き回す。

 器用にボトルを開けて、中へ石を放り込んだ時、男は息を詰めて後ろを向いた。


 乾いた音が鳴らなかったか。小枝を踏み折る微かな音が。

 身を固まらせて耳を澄ます。


 月は雲の裏に隠れてしまい、少し離れた木立も暗く、判然としない。

 ライトを水平に掲げても、光は力無く虚空へ吸い込まれた。

 強いのは闇、人造の光線などものともしない黒い影だ。


 いくらなんでも濃すぎるのではないか、と男は訝しむ。

 月は消えても雲は白い。いや、灰色くらいには明るい。

 それなのに、墨汁に放り込まれたような暗さには遠近感すら狂いそうだ。


 ペキン、と今度こそ明瞭に音が響いた。

 出所は背後、慌てて男が振り返る。


 ゆっくりと波打つ黒いベールは、風に揺れるカーテンを連想させた。目に見えているわけではなく、そう感じるのだ。

 厚い漆黒が左右から縮まって、ひと所へ集まっていく。


 男の前方に、縦伸びた無明むみょうの塊が出現した。

 影が全ての闇を吸い込んだとでもいうのか、月明かりは逆に光を取り戻し、鬱蒼とした茂みが再び細かなシルエットをかたどるる。


「そんな小さい・・・粒で、何をする気だ」


 影に問われた男はボトルの蓋を急ぎ締めて、熊手を両手で握り直した。


「見事な隠形おんぎょうだ。影縫かげぬいに目を付けられたか」

「よく勉強してる。まあ、そうだろうよ」


 黒影が人の形を作ると同時に、影縫い・・・が駆け出す。

 纏ったロングコートから黒い影を水滴の如く散らせて、一足飛びに男の至近へ踏み込んだ。

 影の中に薄く現れた若い顔は、宙に浮かぶ生首のようだ。その白い顔を目掛けて、男の熊手が振り下ろされる。


 狙いは正確で、当たればこめかみに爪が食い込んだことだろう。

 だが、熊手は空を切り、コートは男の背中側へと走り抜けた。


 速い。

 影縫いは影そのもの。

 雲水と同じく万物を受け流し、じつを捉えさせはしない。


 振り向く遠心力でロングコートの裾が開き、太いベルトを巻いた右腰が顕わになる。

 ベルトにはフックが挿され、足に沿って得物が固定されていた。

 くちばし状の鋭いかぎと、そこから伸びる丸木の持ち手。

 鈎を掴んで上方へ抜き投げ、空中で柄を握って男へ構える。


 樫の柄は二尺、鋼の鈎は大烏おおがらすの如し――。

 この武器を男は知っていた。


鳶口とびぐちを持つ影縫い。貴様、烏丸からすまロクか」

「本当に詳しいんだな。その調子で、自己紹介もしてくれると助かるんだが」


 返事の代わりに、男は上体を捻って熊手を振る。

 水平にいだ熊手の爪は、ロクの像を横に切り裂いた。


 虚像が掻き消されるや否や、男の脇腹に蹴りが叩き込まれる。

 思わず体を折り、後ろへ下がったその背を、鳶口がしたたかに打ちのめした。

 鋭いくちばしではなく、裏側の平滑部による打撃だ。ハンマーで殴ったようなもので、男は肺の空気を吐き出してあえぐ。


 それでも顔を上げ、蹴りが来た右へ向いた男だったが、もはやロクはそこにいない。

 左側の足音に反応し、熊手を掲げようとした時にはもう遅かった。

 男の耳元を鳶口がかすめる。風を切る音だけを残し、くちばしは地に刺さった。


「ぐっ、なんっ……!」

「留められるのは初めてか?」


 影を縫い留められては、身動みじろぎも難しい。

 口を慌ただしく閉じ開き、両手を痙攣したように震わせる。


 硬直した指から熊手が抜け、地面へ落ちようかという時、ロクは鳶口を勢いよく引いた。

 やや湿った土に、鈎が刻んだラインが走る。


 ロクが鳶口で引き抜いたのは、輪郭も定かでない黒いモヤだ。

 男から離れたそれ・・は宙に漂いつつも、再び形を作ろうと身もだえる。

 粘土をこねくり回すように動くモヤを、鳶口の先端が真上から貫いた。

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