45. 包囲
鳶口で払った刀は、影を散らせて実体を無くす。
一合を以って、白髪の剣士は間合いの外へ後退した。
「詠月!」
「随分と反応が遅いな。疲れが回復しないのか?」
「お前こそ」
錦が矢を連射したが、どれも詠月の体をすり抜ける。
これは完全な虚、ホログラムと同じく実が無い。
それでも射続けようとする錦を止めて、ロクは詠月へ鳶口の先を向けた。
「本体は長岡京だな」
「さすがに察したか。影縫いが一斉に退いたのは、お前の入れ知恵だろう?」
「これ以上、鬼門を開かせてたまるか」
「いずれ開く。どの鏡も、最後は蓄えた影を放つのが摂理。お前たちのせいで、長らく陽の支配が続いたが」
「その何が悪い」
刀を鞘に納めた詠月は、鍔の
どこまで知っているのか、と詠月は問うた。忌まわしい影縫いの来歴を理解しているのか、と。
「平時は影を吸着し、溢れそうになれば影を放つのが陽鏡だ。暴れる河川を制する堰のようなもの」
幻影を縫っても無益となれば、ロクも詠月の高説に耳を傾けるしかない。
最初は平穏な陽の恩恵を与える陽鏡も、長い年月を経て影を溜め込み、世へ放出する。
実際、その吐かれた影が招いた大乱によって、街は何度も荒れ果てた。
生死は流転する――陰陽の
「縫い具を掘り返し、影を討って理を覆そうなど、世の有り様を否定する
「時代錯誤も甚だしい。今は影を縫うのが、俺たちの負う掟だ」
「影を縫う! 影であるお前たちが言うか」
「摂理はお前の決めることじゃない。俺が間違ってるなら、そのうち消えていなくなるさ」
詠月の体が徐々に透け、川上から吹く夜風に輪郭が揺らぐ。
「全ての陽鏡を解放してみせよう。月輪の世に、影縫いは要らぬ」
この宣言を最後に、詠月は掻き消えた。
古代への回帰志向、社会に対する呪詛、狂信的な原理主義。
何を目指す男なのか読み解く材料は得られたものの、あと一つ重要な動機が欠けているように感じる。
語られた言葉には、影に蝕まれた者に特有の強い情動が無かった。
通りの先を見通したロクは、考察を切り上げて錦を呼び寄せる。
「急いで阿東へ連絡を入れろ。奴のお喋りは、時間稼ぎだったみたいだ」
「あれは……敵!」
「堂々と前から歩いて来やがった。今何時だ?」
「あと十分で四時」
「頃合だな」
錦が一言、作戦開始を伝えるのを待って、ロクは前方の敵へ走り出す。
速度も影の濃さも、彼の全力とは程遠いが、錦から敵の注意を離すためだ。
まだダメージが残っている上に、川が近くでは回復しづらいという理由もあったが。
錦は建物側の歩道を、並走気味について行く。
ロクは前からの敵に集中し、後方の警戒は彼女が担当する。
挑発気味に近づく黒い四枚羽、北斗が上空へ大きく跳ぶと同時に、その後ろに控えていた銃口が光った。
銃を撃ったのは二人、銃声は四回。
まだ距離があったため三発は外れ、当たった一発もコートの袖を掠めただけ。銃撃が牽制目的なのは明白だろう。
急降下してきた北斗の刃を、ロクは
羽根の一枚が袖に刺さり、中の腕を貫通する。
弾は無言で堪えたロクも、縫い具の直撃にはくぐもった呻きを漏らした。
しかしこれは予想していた痛み。腕は黒々と変色して形を崩し、北斗の縫い具と手に絡み付く。
螺旋に巻くロクの腕は、上七軒の蛇のようだ。
「なんっ!?」
「弾避けになれ」
鳶口の柄を手の中でスライドさせ、先端近くに握りを変える。
抱きかかえるように北斗を引き寄せ、その背中にくちばしを突き入れた。
「後ろから七……、八人!」
「任せた」
錦の射程は銃より長く、姿を晒した時点で敵の負けであろう。
縫い具持ちでも、そう易々とは接近出来まい。
縫われて硬直した北斗を強引に押し、ロクは猛然と前へ進む。
不利を見た敵二人は下がり、さらに後ろに詰めていた仲間と合流した。
トータル十人を超え、突進しながらでは数えるのもままならない。
また穴だらけにされるのを半ば覚悟して、敵前へとスピードを上げる。
これだけの人数を集められたのは朗報だろうが、縫い具持ちの少なさが気掛かりだ。
特班以外の影落ちが混じっているのでは――そんな想定を頭に
影蛇となった左腕を大きくしならせ、ぐったりした北斗の身体を宙へ放り投げた。
高速で敵中へ滑り込み、再び柄の根本に持ち替えた鳶口を地に刺す。
急旋回したロクの影が、左回りで円を描いた。
弧が閉じた瞬間、ロクは鳶口を水平に
回転する鳶口が円に沿って飛ぶ。
敵の影を巻き込み、腕を裂き、銃を弾いて一周し、最後は彼の手元へピタリと帰った。
吹き出た血が、赤く軌道を色付ける。
西京極駅はほんの少し先、終点を目の前にしたロクへ敵の増援が迫った。
「何人いやがる……」
「後ろは三十以上、多過ぎる!」
足音からして、南側にも二十人はいそうだ。
膝を突き、自身の影をもう一度全開にしたロクは、錦にも自分へくっつくように呼ぶ。
親鳥が雛を守るように、ロクはコートを開いて彼女を迎え入れた。
「斉射後に抱えて飛ぶ。精々、体重を軽くしといてくれ」
「やってみる」
どうせなら撃つなら、近くまで来て欲しかった。
また痛い思いはするにしても、飛び越えるのは楽になる。
長く感じる静止した時間。五十メートルまで近づいて、敵は通り幅一杯に散開した。
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