38. 陽鏡

 能面でも、もう少し愛想が良いだろう。感情を窺わせない黒い眼差しが、ロクを正面から見据えた。


「お前は……会ったことがある」

「宇治川以来か。お喋りは後にしよう」


 詠月の顔面へ鳶口が強襲する。

 空振りした勢いに任せ、ロクは宙を回って前へ跳んだ。


 彼を後ろから狙った詠月の刀も、先までロクのいた場所を縦斬りして終わる。

 続けて突き出された剣先を真横にスライドして避けたロクは、詠月の足元へ突進した。


 地を這うように身を屈めて詰め寄る彼を、刀が下から掬い上げる。

 鳶口の鈎と刃が激突し、暗い領域内に火花が散った。

 刀の受けに回したため、鳶口での攻撃を中断してロクは進路を曲げる。


 剣閃の速さは、弾丸と同等だ。

 帯刀していたのも意外だが、下手な縫い具や銃よりも捌きにくい。鳶口で受け続けては、いずれ崩されると思われた。


 再び地を蹴り、詠月の攻撃を誘うように直進する。

 刀が打ち下ろされたところで、ロクは自分を通した・・・。濃密な影が利するのは、何も詠月だけではない。


 敵前で姿を消し、背面に抜けたと同時に体を捻る。

 伸ばした鳶口を振り回し、くちばしが詠月の足へ届く瞬間、詠月もまた実体を無くした。

 左横に出現した刀を、ロクも影に紛れて避ける。

 領域の中、二人は虚実を繰り返して、敵を討つ機会を窺った。


 右へ現れたら左へ、後ろに回られれば更に背後へ。

 熾烈な立ち位置の奪い合いは、五回目に様相を変える。

 降り懸かる鳶口を、詠月は消えずに上体をよじって躱した。

 鈎のくちばしが縫った地面へ、詠月も刃を突き立てる。


 妖刀の縫う力など知れているが、お互いが影を押さえた形になり、ロクは一旦跳び下がった。

 いくらかでも動きを鈍らせるのは、詠月相手では危うく感じたからだ。

 間合いを空けて、二人は武器を構え直す。


「刀で縫うのは難しいか」

「そんな半端物じゃな」

「四人では足りないと? 一体、何人殺せば縫い具になる?」

「……勉強熱心な野郎だ。鉄では縫えないと覚えとけ」


 詠月はつかを肩上で握り、足を広めに開いた。これまでとは違う、積極的な突きの構えである。

 強烈な攻撃の後は、必然的に隙が生じるもの。

 これを避けて反撃を決める――そのためにロクは、持てる影を体外へ溢れさせた。

 コートの墨模様が、黒い炎となって揺らぎ立つ。

 ところが詠月は構えを解き、刀を鞘へ戻した。


無明むみょうの剣は、またの機会にしよう」

「なにを……?」

「やっと鏡が起きた。ここも鬼門の範疇ということだ」


 次の瞬間、影を圧倒する光が御所を照らす。

 地上に堕ちた太陽とでもいう光線が、真横からロクを照射した。

 発光源は南西、清涼殿。

 領域の闇は払い退けられ、詠月とロクから長い影が地に伸びる。


 衆生を照らす陽はまた、昏暗の闇を生むべし。

 光が強ければ、影はより暗くなる。

 細く御苑の外まで届く二人の影は、およそどの影縫いも見たことのない漆黒の虚無を湛えていた。


 陽鏡の光に炙られて、夷川の紐は瞬時に蒸発する。

 影の消費が大きかった上七軒が白目を剥いて倒れ、八坂がその横へ崩れ落ちた。

 次いで錦が弓を落として膝を突き、鷹峯と夷川も苦悶に唸る。


 陽の支配する地に、影縫いの居場所は無い。

 対抗し得るのは唯一、陽鏡に匹敵する月輪だけである。


 刀を鞘ごと帯から抜いた詠月は、その両端を持って捧げ持った。

 妖刀の纏う影が、刀身だけでなく鍔からも発していることに、ロクはここでようやく気づく。

 穴や欠けの多い黒い鍔、その歪な円盤こそが月輪だった。


 陽に晒されながらも、ロクは未だ両の足で立っている。

 だが、全身を光の針で突き刺さされ、手足はギプスで固めたように重い。

 それでも足を引きずり、詠月へ向かって一歩踏み出す。


 詠月も激痛に耐えているのは、その食い縛った表情を見れば分かった。

 鳶口を持ち上げるロクに、詠月が目を剥いて応じる。


「お前は……」


 言いかけた言葉を呑んだ詠月は、代わって月輪へ命じた。


「影よ、集え」


 陰陽が反転する。

 太陽は消え、抑え付けられていた闇が堰を切って猛り狂う。


 陽鏡、この月輪と対を成す神具については、ロクも詳細を知らなかった。

 奈良朝からの伝承は文書の形で御所から室町殿へ、江戸期には二条城に保管されたと言う。

 しかし幕末の混乱期に散逸し、今や内容を読む手段は無い。


 ただ陽鏡が陽金で作られたものであるなら、本質は月輪と同じだろうとロクは推察した。

 月輪や縫い具の素材となる黒鋼、これは陽金が変質したものだ。

 波動を同じくする二つの神具は、お互いに影響を及ぼし合った。


 陰陽は連環する。

 月輪は陽鏡を発動させ、陽鏡は月輪の力を真に解き放つ。

 詠月がこの手順をどうやって知ったかはともかく、企ては成就した。


 鳶口は詠月に届かず、無為に地面を穿つ。

 体内の影を干し乾かされた次に、過剰な影を浴びせられ、ロクだけでなく詠月までもが膝を屈した。


「陽鏡を……スイッチにしやがったな……」

「鏡が溜めた影は、いずれ溢れ出た。私はそれを早めただけだ」


 御所を席巻した暗闇は、留まることの無い波濤と化して街へ広がる。

 沈黙した陽鏡と交替して、月輪が京を支配した。


を駆逐するつもりか」

「違うな。根絶やしにするのは、影縫いだ」


 詠月の陰影が深くなり、のっぺりとした黒へ溶けていく。


「この街は狩場となろう。我が手の上で、抗ってみるがよい」

「なぜ影縫いを憎む?」

「幾千もの影を縫いながら、それを問うか。在るべき世を取り戻すのみ」


 覚悟せよ――それを最後の言葉にして、詠月は消え去った。

 茫洋たる闇の中で、影縫いたちの喘ぎが静寂に逆らう。


 この時以来、京都市街の気温は三度降下した。

 安穏と眠る人々には、過ごしやすい夜だったはずだ。


 陰欝な闇を感じ取れる影縫いだけが、かつてない異変に緊張を高めていった。

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