08. 下準備

 水も飲まず、座りもせず、ロクは木陰に立って矢の行き先を見つめる。

 錦はひたすら影矢を射るように言われ、もう半日以上が経過した。

 その間、彼女だけコンビニのサンドイッチを買って来て、食事を素早く済ませる。トイレにもその際に一度行った。


 山に向かって放たれた矢は、緩い放物線を描いてケヤキの上を越え、木々の中へ墜ちていく。

 最初より飛距離が伸びたことを成果として、ロクはやっと訓練の終わりを告げた。


「ま、こんなもんかな。距離だけなら及第点だろう」

「先生、きっついです」

「誰が先生だ。影を消せ」


 かげりを消した錦の髪が、昼下がりの木漏れ日を反射して光る。

 贅肉の少ない尖った顎に、筋肉質な腕。ポニーテールを揺らす制服姿は、部活動にでも励む女子高生そのものだ。

 ハードな課題に嘆いてはいたが、肌艶は良く、汗も無い。

 影を纏えば肉体は疲労しない、それは事実だったのだが。


「なんかこう、精神的に疲れたというか……」

「まだ心が拒絶してるんだ。影に同化するのをな」

「でもでも、威力は上がった気がするよ」

「並の影落ち相手なら、これでいい。だけど詠月に撃つなら――」


 弓を貸せと言われ、錦はロクヘ手渡す。

 ハンドルを回して弓を張ったロクは、彼女と同じく山へ向けて影矢を射った。

 途中までの軌跡は、錦と寸分変わらない。しかし高いケヤキの上で、矢は弾かれたように垂直上昇する。

 空へ消えるかと思われた次の瞬間、真下へ反転し、ケヤキの突端へ直撃した。


「ほえー、すごい」

「婆さんはもっと上手かった。常識に囚われるな。矢に似せているだけで本質は影、軌道は自由に規定できるはずだ」


 これが出来るようになるまで、接近戦は厳禁だとロクは釘を刺す。近づかれたら逃げろ、と。

 影縫いに匹敵する敵では、足止めにも使えないというのが彼の評だった。


 懸命に練習したとは言えまだ半日、錦も大して落胆することなく、更なる向上を目指すと意気込む。

 鼻息を荒くする彼女を制するように、ロクのスマホが着信で震える。

 話の内容から、通話相手は阿東だと錦にも分かった。


「阿東から連絡があった。俺たちのために、社務所の部屋を借り上げてくれたらしい」

「寝ていいの? まだまだイケるよ」

「デカい影が一瞬、大和郡山やまとこおりやまで観測されたそうだ。いよいよ来るぞ。お前は日没まで寝て、回復しとけ」

「おー!」


 元気な返事は、かえってロクの心配を誘う。

 とは言うものの、錦の適性が驚くほど高いことは、この半日で判明した。

 これなら戦力になるかもしれん、とロクは彼女の使いみちを算段したが、 口にすれば錦が増長するのは容易に想像され、本人に伝えられることはなかった。






 錦を社務所に送り出した後も、ロクは境内を哨戒して歩く。

 襲撃に最適なのは、やはり影が強くなる深夜か。

 日中でも影を抑えて自動車に乗れば、常人の目は誤魔化せる。だが何も、阿東は肉眼で警戒網を敷いたわけではなかった。


 局員たちは皆、式紙を持たされおり、近くを詠月クラスの影が通過すれば即座に反応する。

 ましてロクたち以外の影縫いも市内にいるはずで、彼らは遠くからでも急行するだろう。

 戦闘が避けられないとすると、敵は夜を行動の機に選ぶはずだ。


 影縫いが等しく強化されようとも、夜のメリットは大きい。

 縫い合いなら自分に有利だと、詠月は考えるはず。かつてロクをして接近を躊躇わせたほど、濃密な影だったのだから。


 本殿の前は観光客が多く、バックパッカー風の外国人も目立つ。

 ロクが見た限り、どれも無害な一般人である。

 詠月の斥候でもいれば局員が飛んで来るだろうし、彼が見回るのは無為な仕事と言えよう。

 それでも、ロクは自分の目で見ておきたかった。


 今回は珍しく局との協同作戦となったとは言え、本来は自分一人で完遂するのが影縫いというもの。

 その基本を譲る気は無い上に、局を手放しで信用は出来ない。

 たまたま目的が一緒になった、それだけのことだ。


 本殿の前を通り過ぎ、錦が寝ているであろう社務所の脇を抜けて、北に隣接する水谷神社の近くまで赴く。

 そこで彼はきびすを返して南へ戻り、途中で春日山の奥へと踏み入った。

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