09. 蜘蛛の巣

 蝉の声も遠い静謐な森は、意識を集中するのに都合がよい。

 目視で警戒した次は、影で探る。

 その場に片膝を突き、右の掌を砂利にピタリと当てた。


「満ちろ」


 木陰に自分を溶かし込み、溢れた影を四方に流した。

 樹木の途切れる山裾を越え、国道の先にある住宅地へ。

 人の光が密集するのは、おそらく学校か。


 ロクを中心にして、夏日の蒸し暑さがほんの少し和らぐ。

 敏感な人間なら、彼の影に触れて隙間風の如き悪寒を覚えたことであろう。


 一際明るいのは幼稚園か保育園、光点の数が多いのは大学のようだ。

 高速で移動する車両に、もっとトロトロと動く自転車。

 生命の脈動に満ちた街は、影とは無縁の現代社会――。


 いや、誰しも幾許いくばくかの翳りは抱えて生きている。

 ロクの鳶口なら、それを無理やり引きずり出すことも出来るが、きっと一瞬で蒸発するに違いない。

 今は光が影を圧倒する時間、不穏な暗さは薄皮一枚を隔て、陽光の裏に隠されていた。


 自分の影を、さらに広範囲へと行き渡らせる。

 半径およそ二キロ程度、これがロクの索敵できる限界だ。

 一端、影を解いた彼は、阿東へ連絡を入れる。


「春日大社の南々西、およそ二キロくらい。一般人のフリが下手くそな影縫いが二人いる。味方か?」

『二人? 円町えんまちならこちらでも把握しているが、調べさせよう』


 回線を繋げたまま三十秒ほど待つと、現場へ急いだ局員から報告が来た。


夷川えびすがわだ。円町を前に立てて、二人組で行動しているらしい』

「敵ではないな。放置しておくぞ」

『詠月とは対立する男だ、構わんだろう。余計な騒動は控えたい』

「引っ掻き回されなきゃいいけどな。西陣にしじんも来てるのか? 未明に会ったが」

『いや……。気になるのは夷川くらいだ』


 殺された松原は、夷川の友人だった。

 私怨で詠月を追い、局の協力は断って単独行動を取っていると聞く。

 円町は遠出を嫌がる老人だったが、奈良まで出張でばったのは夷川に助力するためか。


 影縫いは押し並べて他人の命には従わないものであり、阿東もハナから局でコントロールすることを諦めていた。

 犯罪行為に手を染めた影縫いは、他の影縫いから粛正されるのが昔からの不文律だ。

 動機はともかく、夷川が詠月を狙うのは筋が通る。

 引っ掛かるとすれば、わざわざ仲間を利用して局の目から隠れようとした点か。


 ロクの単調な巡回と探索は、その後も淡々と繰り返された。

 風が凪ぎ時間が止まったような午後を過ぎて、夕日の下端が山の端にかかる。

 近くの影は夷川のものだけ、それも南々西に留まったままで動きは無い。


 巣を張った蜘蛛と同じ。獲物が掛かれば、それを喰らう。

 理屈っぽい分析は、局にでもやらせればいい。

 影縫いの日常は、本能に従った待機と捕食で費やされるものだった。


 阿東は北の低層ビルを拠点にして、各所からの情報を分析しているだろう。

 ロクよりは余程忙しく動き回っていそうだが、待ちに徹しているのは同様だ。

 太陽が完全に没した頃、仮眠を取って気合いを入れ直した錦が戻ってきた。


「何かあった?」


 夷川の一件を伝えたロクは、彼女にも気配を探るように指示する。

 彼より索敵範囲が狭く、役には立たないものの、これも練習だと錦は真面目に従った。


 午後八時、光点が目映まばゆかった街が、少しずつ黒く塗り替えられていく。

 都会の繁華街でもなければ光は各々の家へ帰り、翌の日の出まで身を潜める。

 錦は何度も影を解いて口を開きかけたものの、無反応なロクを見て会話を断念した。


 十時、十一時と時間が進み、住宅地に点在する光も力を失う。

 人々が眠り、影が支配するの刻は近い。

 数時間ぶりに黒影を解除したロクが、震動する携帯端末を取る。


『明日香に弱い影が四人。局員で対処しておく』

「殺すのか? まあ、そいつらの相手をしてる暇はないけどな」

『麻酔が効くなら、殺しやしない。これ以降、警戒レベルを引き上げる。連絡はショートメールでの一斉通知になるので注意してくれ』

「分かった」


 通話を切り、鳶口を握った彼を見て、錦も弓を手にした。


「来るの?」

「多分」


 虫の音も静まった深夜、局からの緊急連絡が届いたのは、午前二時になろうかという頃だった。

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