49. 西陣
西陣とロクの動きは加速していき、錦の目では追いづらくなる。
まだはっきりと見えるのは、曲がり鋸が斬った闇の隙間だ。
これも次第に数を増し、編み籠のように二人を包んでいく。
ロクのスピードが尋常でないことは、西陣もよく理解していた。
彼女はその不利を覆すため、足場を限定する戦法を取る。
鳶口が肩を、脛を、頬を傷付けようとも、西陣は果敢に彼の背後へ回り込もうと試みた。
その度にロクが迎撃したが、彼女が残した切り痕によって遂に断裂の半球が完成する。
半径三メートルほどのドームの内側で、西陣はロクに接近戦を強要した。
彼女は異質な影縫い、局の下で戦闘の研鑽を積んだ変わり種だ。
影縫いになって短くても、阿東の肝入りで一流の技能と知識を身に付けている。
「顔に疵が増えたわ」
「恨むか?」
「少し」
鋸を中段に構え、彼女は真正面から斬りかかる。
それを鳶口で弾いたロクは、すぐにしゃがんで回し蹴りを放った。
西陣が小さく後ろへ跳んだのを追い、彼女の足元を縫う。
地面に刺さった鈎を見て、西陣は鋸で縫われた影を切り離した。
「馬鹿にしないで」
右上から左下へ、切り返して左上から右下へ、鋸が斜め十字を描く。
ここまで彼女が縫い具に習熟していたことに、ロクは少し驚いた。
切り開いた十字の中心へ、西陣は鋸を叩き付けた。
断裂が粉砕され、鋭い針となって飛び散る。
逃げ場は少ない。
針の手薄な左下へ、彼は跳び込んだ。
それが罠であるのはロクも知ってのこと。彼の首を狙う鋸を、鳶口の柄で食い止める。
鋸歯を押し返そうとすれば、木製の柄は折れてしまうだろう。
柄を傾けて力を受け流し、西陣の懐へ接近した彼は、己の影を周囲に伸ばした。
黒い鳶口の群れが現れ、彼女の頭へ目掛けて倒れる。
西陣が鋸でくちばしを払う間に、ロクは一歩下がった。
影となって粉に消えた鳶口は、全てが虚像だ。
ヘリが爆発する音が轟き、ロクの頭がそちらへ向く。
絶好の隙を捉えて、西陣は彼を縦に切り裂いた。
この黒いロクも虚。
掻き消えた像の後ろから、鳶口が彼女の腹へ振り抜かれる。
水平に回された鳶口は西陣の右脇腹から入り、反対の腹へ突き出た。
もくもくと煙り立つ影を見た錦が、思わずロクの名を叫ぶ。
西陣は膝を屈し、正座するようにその場にしゃがんだ。
駆け寄った錦は、彼女の脇腹に出血が無いと気づく。ロクは鳶口を
「私の負け、ね」
「縫い具を持っていれば、まだ少しは動ける」
「放せば?」
「影が抜けていって、消えるだろう」
情けをかけたのかと聞かれ、ロクは首を横に振った。
いつもと同じく影を縫っただけだ、と。
「人として死ねばいい」
「そう……」
「どうせなら、親父へ縫い具を返しに行け。俺の顔も立つ」
「なんだ、頼まれてたのか」
西陣は鋸を握り直し、薄く笑う。
影が激減した今、顔の艶が増し、血色が良くなったのは影縫いならではの皮肉だった。
「縫うのも殺すのも、同じに感じた」
「似てはいる。影も人も、増えすぎたら
彼自身が覚えている話ではなく、
どうせ子も病に冒されていよう、そう考えた人々による仕打ちである。
人の死は彼の寝床、影は彼の
溢れた人は影を産み、影は人の世を腐らせる。
故に影を滅っして輪を回すのだと、一人の影縫いが彼へ鳶口を継がせた。
先代烏丸の顔は忘れても、教えられた言葉はロクの
人と影は分かち難い明暗、どちらが圧倒しても
過ぎた影は縫い果たすべし。
「詠月は悪?」
「さあな。人にとってはそうだ」
「影縫いにとっては?」
「善悪じゃない。防がないといけない災害だよ」
難解な命題に目を伏せた彼女だったが、歩み去ろうとするロクヘ注意する。
鬼門へ向かうつもりなら、方向が違うらしい。
陽鏡が在るのは
「府道二○九が鬼門に沿ってる。そこを進めば、詠月に会えると思う」
「分かった」
ロクは西陣の情報を信用して、府道へと走り出した。
横へ並んだ錦が、つい疑問を口にする。
「あの人は、もう助からないの?」
「必ず死ぬ。だが、いつ死ぬかは分からん。人の部分がどれくらい残っているかだな」
西陣には、指針にしたい者がいなかったのだろう――それが錦の出した結論だ。だから迷った。信じる者、と言い換えてもよい。
いつか錦も迷うかもしれないが、今の彼女にはロクがいる。
それがとてつもなく幸運なことだったと、彼女は出会いに感謝した。
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