第三話 酔っぱらった彼と

 

 緊張の解けた二人は、朔太郎が絵を描いたりしながら楽しく過ごしていた。ただ気付けばもう日を跨ぐような時間で、流石に帰らなければただいけない。海は化粧室から出て、終電の時間を調べる。もうそろそろギリギリではないか。朔太郎の家は何処だろう。


「朔。終電になっちゃうよ……え、嘘でしょ。ちょっと」


 席へ戻ると、朔太郎が机に突っ伏している。そして静かな呼吸の音。明らかに寝ている彼を見て、海は青褪めた。


「お連れ様、大丈夫ですか」


 席へ戻るなり固まっていた海の背後から、店主が優しい声色で話し掛ける。寝てますね、と冷静に返してみるが、どうしたら良いものか。海は、彼の家を知らない。花枝に聞こうにも、流石にこんな時間に彼の住所を訪ねるのはおかしい。


「少し電話して来ても大丈夫ですか。直ぐに戻りますので」

「大丈夫ですよ」


 有難うございます、と頭を下げ、海は携帯を持って店外へ出た。こんな時間に掛けられるのは、ただ一人。理沙である。



「理沙、ごめん。寝てた?大丈夫?」


 どうしたの?と聞いてくる声は、まだ元気そうだ。良かった、寝てはいなかったか。


「実は試食会の後で、彼と飲みに来たんだけど」

「お、凄いじゃん。え?それで、何?あ、まさか……」

「ごめん、多分想像してくれてるのとは違う。飲んでたら彼が、寝ちゃって。起きないの。家知らないし、どうしよう」


 タクシーに押し込んでも、下ろしてもらう場所が分からない。どうにもならない海は、パニックになり始めていた。


「あら、どうしようか。あ、じゃあねぇ。送って行くよ」

「ん、どういうこと?」

「隼人と今、ドライブしててさ。迎えに行くよ。でも、家知らないんでしょ?だから、海の家に二人を届けてあげる」


 その返答に嫌な予感しか浮かばなかった。理沙が何処か楽しそうなのが、どうにも腑に落ちない。


「いや、何で私の家なのよ」

「だって、置いては帰れないでしょ。本当は彼の事務所の人に住所を聞くか、若しくは預かってもらうのが一番だけど。そんなことより、こんな時間に電話しにくいでしょ。しかも二人で会ってましたってさ」

「うん……まぁそうだけど」

「じゃあ、決まりね。詳しくは車の中で聞くから。場所を直ぐに送ること」


 海の返事を待たずに、電話は切れた。理沙のこの時間のハイテンションさは手に負えないのだ。学生時代、深夜にコンビニスイーツを制覇すると言い出した時も、急に夜通しゲームをしてクリアすると言い出した時も、止める佐知と海の話などお構いなしだったのだから。


「すみません。今友人が迎えに来るので、もう少し待っても大丈夫ですか」


 店内に戻り、厨房に話しかける。「まだ仕舞いじゃないから気にしないで」と笑顔で応じる店主に、何度も頭を下げた。

 理沙へマップを送信すると、一人ジョッキに残ったビールを飲み、朔を見つめている。彼は楽しかっただろうか。元カノの元カレに遭遇する元カレ、なんて、そうはいない。海のことを、本当はどう思っているのだろう。小さく息を吐き、またビールを流し込み、昨夜の理沙との話を思い出していた。それは突拍子もない事を言い出した理沙に、海が驚く。そんないつもの光景である――




「それって、彼は海の事好きなんじゃないの?」


 赤提灯のカウンターに並び酒を飲みながら、理沙はそう言った。それはちょっと真剣に言っているようにも見える。


「いや、ただ懐かしんでるだけだよ。本当に思い付いたら、直ぐに行動する人でさ。だから思い出したから呼んでみたんじゃない?昔みたいに」


 先日のランチの時の出来事を、理沙に話したのだ。明日は朔太郎に会わねばならない。その前に少しでも散らかった心を整理しなければ。その為に、他人の考えを聞こう、と言うわけである。


「うぅん……何て言うかさ。私も、思い付いたら直ぐに行動したいタイプだけど。何かが違うんだよな」

「何かって?」

「そうねぇ、隼人で例えるとさ。私は彼を隼人って呼んでるから、別れて再会しても隼人って呼ぶと思う。仕事以外ならね。けど、隼くんって呼んでたとしたら、多分名字で呼ぶと思う。ほらニックネームって、その時の繋がりで呼んでる部分ってあるじゃない?それが崩れたのなら、気軽には言わないかな」


 なるほどねぇ、と相槌を打った。確かに、それは分かる。順也に会ったとしても、同じだ。


「あの時こうだったよねって、ゲラゲラ笑って。ついその流れで昔みたいに呼んじゃった。それなら、あると思うけど。でも、スペイン人の彼女いるって言ったじゃない?それならそんな風には、私なら言わないね」


理沙は腕組をして、大きく頷いた。


「うん。まぁ、あくまで私は、ね。で、明日会うんでしょ?しかも試食会って事は、半分は仕事だけどさ。半分はプライベートみたいなものだよね?私が行った時も世間話しながら、色々食べたもの。それに、その後一緒に帰れたし。それって、何かチャンスじゃないの?」

「チャンスって何よ」


 不貞腐れた顔をしてビールをあおる姿は、ただのやけ酒にしか見えないだろう。理沙はそんな海を見て、いつものように、だけれども少しだけ丁寧に、優しく問い掛けた。


「だってさ、海。結局は、好きだったんでしょ?彼のこと」


 カウンターの奥を見るだけ。海の方は見ずに、優しく問うのである。


「うん。考えたけれど、好き以外の感情が見つからなかった。嫌いでも、普通でも、無でもなくて。好き、だった。でも、仕事で関わる以上は、プライベートを交えたくない。その気持ちも強くて。だから、忘れようと思ってる」


 難しく考え過ぎていることは、海自身も解っている。好きだけど忘れるなんて言う、そんな難しい芸当を出来るはずもない。それでも仕事で関わっている以上は、周りに気を遣わせてしまうし、それは本望ではないのだ。




「海、恋って理屈じゃないじゃん。相手を想って、考えてって言うのは、恋でしょ?」

「まぁ、そうだね」

「じゃあ、海は恋してるじゃない。それは簡単には消えないよ。しかも仕事では会うわけでしょ?気配を感じながらその人を忘れるなんて、自分の心を殺すようなものじゃない。そもそも、なかったことには出来ないんだからね。今更、過去を」


 分かっている。恋は理屈じゃない。寧ろ、本能なのだ。


「そうだね。解っているつもりだよ、私も。それでも、仕事で関わる以上は無理なのよ。上手く切り分けられないし、そもそもこれ以上も有り得ない。言ってしまうわけにもいかないのは、明白なのよ」

「何か海らしいね。難しく考えすぎて、頭デッカチになるの」


 理沙は、枝豆を頬張りながら力なく笑った。寂しそうな横顔に、言えることは一つだけだ。


「でもね、今は忘れるように頑張ろうと思うの。せめて、あのカフェが出来上がるまで。もしも完成した頃にまだ好きだったら、きちんと自分の気持ちを解放しようとは思ってる」


 仕事での関わりがなくなる時に、もう一度フラれるのならいい。それが今、唯一出来ることだと思っている。


「それならいいんだけど」

「うん。理沙と話して、それだけは決めたよ」

「そっか。でもさ、明日のチャンスは上手く使うんだよ。試食会の後、二人で出掛けるようなことになったら、そうやって構えてる考えを少し下ろして、楽しんでごらん。笑って、彼を昔みたいに呼んで。明日だけでいいからさ。忘れるなら、その後でもいいんじゃない?」


 理沙は、海の背に優しく手を置いた。鎧を少し脱げ、と言うことだ。海は悩んだ後に唇を噛み締め、分かった、と大きく頷いた――



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