第七章
第一話 終わりになど出来るのだろうか
「色々とごめんなさい」
「いえいえ。お気になさらないで下さい。明日からまた、よろしくお願いします」
「うん。じゃあ」
改札を通り抜けた朔太郎は、一度だけ振り返って手を挙げる。背を向けて歩き始めた彼を、海は消えるまで見つめていた。あの頃のように。まだ余韻の残る心をシャットダウンするように、理沙へメッセージを送る。『彼と今別れた。昨夜は本当にごめんね。ありがとう』と。そうして、海は駅を離れた。
朔太郎は、一体何を思ったろうか。優奈が見たという外国の彼女。それも本当なのか分からないし、結局何も聞くことが出来なかった。理沙に昨夜言われたように、朔太郎を越えなければ前に進めないのならば、傷付いたとしても聞いてしまうべきだった。彼が笑って「スペインに彼女が居るよ」と言われてしまえば、この想いなど終わりなのだから。
どうして出来なかったんだろう。あぁやって笑って話している時ならば、その流れで言えば良かった。少し、いや相当な痛みは負うだろうが、それでも引き摺っている想いを断ち切るには良いタイミングだったはずだ。それが出来なかったのは、意気地がなかったからだけではない。幸せだと感じた時間を失くしたくなくて、笑い合える空間を壊したくなかったからだ。
「あぁ、馬鹿だ」
呟きが溢れると同時に、世界が歪み始めた。聞く勇気がないのなら、静かに幕を引かなければいけない。そんなの分かっていたはずなのに。いつも臆病で、泣き虫で、傷付くのが怖い。そんな自分が嫌いだった。三十になって、流石にそんな自分など消えたと思っていたのに。大人だから……いや、それは違う。相手が朔太郎だから、一番大事な所で尻込みしてしまったのだ。それに気が付いた海は、ズカズカと歩く速度をあげていく。グニャグニャに歪んだ視界から、何かが溢れ始めていた。
「もうヤダ……」
走り返った部屋のドアを閉めると、もう歯止めが効かなかった。好きだと想う気持ちが、彼の傍に居たい気持ちが、わぁっと渦になって海に押し寄せたのだ。止まる様子のない涙を拭うこともせず、靴も脱がずに、ただボロボロと落ちるのを見ていた。
このまま、彼に彼女がいたとしても、好きなままでも良いじゃない。その意見は間違っていないと思う。ただ相手が彼――田中朔太郎であること、それだけが百でないならば零にしなければいけない理由だ。そうでなければ、きっと終わりを見つけられずに、永遠に彼への気持ちに囚われ続ける。この十二年、根っこは結局何も変われなかったように。
重たい足を引き摺り、ようやく部屋へ入る。いつもの自分の部屋なのに、変な違和感を覚えた。きっとそこに朔太郎がいたというだけで、空気の色が変わってしまったのだ。
「変なの……」
ここに彼がいた。会いたいと夢見て泣いていた部屋に。ふと目をやったベッドは朔太郎の抜け殻のように、妙にリアルに膨らんでいる。海はのろのろとそこに近づき抱き締めると、朔、と言って大声で泣いた。こんな気持ち、終わりになど出来るのだろうか。
泣き止んだ頃には、夜の入り口が見えていた。そして海は、また静かに自分の心に鍵をかけ始める。何もなければそれまで。理沙はそう言っていた。そうだ、楽しかっただけで何もなかったのだ。どちらとも何かを言い出す事もなく、ただ他愛のない話をしてランチを食べた。それだけ。
今終わりになど出来る気がしなくとも、終わらせなければならない時は来る。それに向かって行くだけだ。カフェのオープンまでは、あと少し。明日からはまた、仕事の関係だけを続けていこう。そのうちにきっと、気持ちの整理がつくはずだ。きっと。
でも、もしも。もしも、その時にまだ彼を好きだったら。傷付いてもいい。泣いたっていい。きちんと朔太郎に気持ちを伝えよう。
そして海は、立ち上がる。
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