第四話 社会人、一日目
「Te amo,SAKU」
昨日、帰国するベリータは別れ際にそう言った。それがどういう意味であるかを、朔太郎は理解している。いつも唐突だけれど、後先考えずにいい加減なことを言うような女ではない。ベリータは本気なのだろう。言われたことは嬉しくもあったが、同時に今日から新生活を始める朔太郎には重荷でもあった。
「おはようございます」
複雑な思いはあれど、今日は朔太郎の勤務初日である。昔と変わらず、事務所内には花枝の淹れるコーヒーの匂いが漂っていた。
「おう、バイト。今日から、よろしくな」
「いえ、こちらこそ。雇っていただいて有難うございます。お力になれるように頑張ります。よろしくお願いします」
先日、言ったかどうか忘れてしまった礼を、初めに言っておこうと考えてきた。あの時は海がいた動揺もあり、実は半分以上覚えていない。
「でな。初日に悪いんだけど、これから現場に行かなきゃいけなくてさ。今日は留守番頼める?分かんない事は、花枝に聞いてくれればいい。あとミノリの案件確認して、お前も考えておいてくれ」
「分かりました」
「すまんな。よろしく。あとこれな、お前の。正確にはまだバイトだけど、もう使っていいから」
「ありがとうございます」
森本は優しい笑みを浮かべ、名刺を差し出した。田中朔太郎、と書かれている。バイトの時にはなかった物を貰うと、急に社会人になった気になるのだから不思議だ。それをじっと見つめる。よろしく頼むぞ、と温かい声と共に皺になり始めた手が、そっと肩に置かれた。この期待を裏切らないようにしよう、と朔太郎は改めて決意している。
支度を済ませ出掛けて行った森本を、花枝と二人で見送った。振り返りながら妻に手を振るところも、彼は変わっていないようだ。
「ごめんねぇ。本当は、何だかあれこれ考えてたみたいなんだけどね。急に連絡入っちゃって」
「いや、いいんですよ。勝手は大体分かってますし。とりあえず、ミノリの案件確認しますね」
「うん。よろしくね」
ミノリの図面などが入ったファイルを取り、椅子に手を掛ける。キコキコ音を鳴らしながら座っていたな、なんて思い出して、つい頬が緩んだ。
「はい。いつものよ。今日はゆっくりなさいな」
花枝はそう言うと、朔太郎の傍らにコーヒーカップを置く。それもバイトをしていた時と同じ物を。保管されていたのであろうそれには、既にミルクが入れられている。この様子だと、きっと砂糖も入っているだろう。バイトを辞めてからも、ここには朔太郎の居場所があった気がして擽ったい。 一口飲んで、いつもの甘さにホッとした。ベリータのことは頭を過るが、今は仕事だ。彼女も返事は急いでいないようなことを言っていたし、プライベートは後回しにしたい。
案件の流れを確認する為に
「はい、森本デザイン事務所です」
落ち着いて出たものの、ちょっぴり緊張はしていた。日本らしい対応を思い出さねば、と焦ったからかもしれない。
『お、おはようございます。ミノリの木下と申します。お世話になっております。森本さん、お手隙でしょうか』
そんな記念すべき初電話は、あの子からだった。クライアントなのだから可笑しなことではないが、脇にじっとりと汗をかき始めたような感覚に陥る。朔太郎は小さく呼吸を整え、冷静に対応をしようと心掛けた。
「おはようございます。田中です。申し訳ございませんが、森本は本日、朝から現場に入っておりまして、戻りが午後になってしまうかと思います」
極力落ち着いた声でそう返すと、『そうですか。お忙しいですもんね』と言う声色は何だか残念そうに聞こえる。
「あの……。貴社の案件は、本日より私も手伝うように言われております。まだ確認をしている段階ですが、何か分かる範囲でしたらお答えできるかと思います」
『そ、そうですか。では、お願いしてもよろしいでしょうか』
「はい。少々お待ちいただけますか」
『はい。先日、森本さんにメールで送っていただいた、ラフ案を見ていただけると助かります』
彼女もまた焦りや困惑を端々に見せながら、冷静に対応しようとしていた。そう、これは仕事なのだ。互いにビジネスだと線を引くように、向き合い始めている。友人でもない、初めましてでもない。彼女との関係は、これから上手く作り上げる必要があった。
「お待たせしました。あぁ。これは、入口の件でしょうか」
『そうなんです。どちらの案にも利点はあって、決め兼ねてまして。ただ入口となると、早めに決めないと大きく左右しますよね。それで、ご相談を、と思ったんです』
「そうでしたか。えぇと、木下さんはこれからお時間ありますか。恐らく、話をしながら詰めて行った方が早いと思うんですが」
これまでのやり取りを見る限りでは、話を聞きながら描いてしまった方が早い、と判断した。別に会いたかったわけではない。あくまで、これは仕事なのだ。
『時間ですか。えぇ、と。そうですね、今日ですと十四時から予定がありまして。午前か若しくはその会議の後か、でしたら余裕がありますが』
「では、これからと言うのはいかがでしょう。私が伺おうと思いますが、こちらの方がやりやすいですか」
『これから、ですね。承知しました。場所はどちらでも構いませんよ。パソコンがあれば対応は出来ますし。えぇと、そちらの作業的には如何でしょうか』
朔太郎の提案に、海は質問で返して来た。作業的には、という言葉が引っ掛かる。これは多分、打ち合わせ自体を指しているわけではない。
「そうですか。仕事的には、どちらでも大丈夫ですよ。仕事的には」
そうなのだ。打ち合わせなど何処だって構わない。カフェだって良いくらいだ。けれど、互いに懸念しているのはそう言うことではない。いきなり二人で打ち合わせをする不安である。無意識に仕事を強調した朔太郎は、「ごめん」とつい口走った。慌てて「すみません」と言い直したが、変に思われたろうか。
「では、私が伺いますね。野村さんたちにもお会いしたいですし」
『そうですか。では、野村にも話しておきますね。きっと喜ぶと思います。受付で木下を呼んでいただければ、お迎えにあがりますので、よろしくお願いします』
「わかりました。では、後ほど」
どちらが良かったのか。いや、何処であったとしても、互いの気まずさは変わらない。花枝がいた方が雑談も出来るだろうが、ボロを出さないように余計に緊張してしまう気がした。
今更二人で会っても、どうってことはない。もう十二年も経つのだ。彼女だって、彼氏くらいいても不思議ではない。そうなれば目の前に現れた元カレなど、迷惑なだけである。
「海ちゃんからだった?」
花枝が不思議そうな顔をして、朔太郎を見ていた。気付けば電話を見つめたまま、心の中で言い訳を探していたのである。
「あ、そうです。木下さんが、悩んでらして。聞いた限りでは、話しながら描いちゃった方が早そうなので、今から行ってきますね」
「そう、分かったわ。午後にはあの人も戻ると思うし、そうしたら進捗話してあげてね」
「分かりました」
花枝の穏やかな微笑みを見ながら、朔太郎は再スタートを感じていた。手早く持ち物を確認し、鞄に仕舞い込む。忘れ物などあったって良いが、何故だか失敗したくない思いが強くあった。甘いコーヒーを一口飲んで、貰ったばかりの名刺を掴む。社会人一日目。朔太郎は「行ってきます」と花枝に声を掛けた。
「行ってらっしゃい」
彼女の優しい笑みと声に背を押され、朔太郎は前を向いて歩き始めた。
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