第五話 ノスタルジック

 朔太郎は大きく息を吸った。新しい生活の始まりへの不安と緊張感が、ミノリの前に着くと一層大きくなった。多少の足枷はあるものの、やはり身は引き締まるものである。

 

 扉を開けると、受付カウンターに座る女性が直ぐに立ち上がり頭を下げた。優しく微笑む彼女に歩を進めながらも、まだ受付が存在していたことに何でだかホッとしている。ここはビジネスマンだけが訪れるわけではないから、こういった柔らかさは出来るだけないとね。昔、千佳子がそう言っていたことがあった。今では電話やタブレットが置いてある受付も増えてきたらしいが、これはこれの良さが確かにあるものだ。そんなどうでもいいことばかりを考えながら、彼女の呼び出しを願った。

 足を踏み入れてからどうも、鼓動の音が大きい。ずっと会いたいと願っていたわけでもない元カノに、再会をした。それが、何とも言いようのない緊張感を出しているのだ。事実、部署名と名前を告げたその声は微かに震えていた。木下さん、そう呼んだだけなのに。


 暫くして、海が小走りで向かって来るのが見えた。彼女もまた、強張った表情のままである。今日も変わらない、クルンと内巻きにしたボブ。化粧慣れしていないところも、あの頃のままだ。


「ご足労いただいてすみません」

「いえ、言い出したのはこちらなので。かえってお時間をいただいて、すみません」


 他人には分かるはずのない緊張感が、二人の間に漂った。仕事という表向きに徹しながら、互いに正しい距離感を探っている。本心は戸惑っているはずだ。互いに不自然な表情を持ちながら、案内をする側、される側に終始する。何か話し掛けた方が良いだろうか。気軽に「暖かくなってきましたね」などと声を掛けるぐらい、不自然なことではない。それなのに、結局は声を掛けられぬまま会議室へと通された。



「わぁ、こんな風になったんだ。バイト辞める頃に改装になってたんだ」


 会議室は、以前と同じ場所にあるものの様変わりしていた。光が程好く射し込んでいて、もう密閉された空間――昭和の会議室ではない。ブラインドこそあるが、開かれた印象を持った。その懐かしさのあまり、急にリラックスした言葉に気付き口をつぐむ。それに苦笑いを浮かべた彼女は、コーヒーを、と小さく声にして直ぐにここを離れて行った。

 そうして即座に、自分を戒めたのは言うまでもない。これはビジネスなのだ、今から何かが始まるわけではない。大きく深呼吸して襟を正す。落ち着こう。鞄から取り出した資料を馬鹿みたいに丁寧に並べながら、もう一度距離感を確認する。さっきみたいに言ってしまっても、本当は問題などないはずだ。相手が初対面であれば、そうでしたか、とでも言ってくれるようなものである。彼女とは誰よりも気を遣って対応しなければいけないか。


「少し離れたところに置いておきますね。ミルクと砂糖もこちらに」


 たちまちにやって来た彼女に驚いてしまったが、彼女が気付いた様子はなかった。彼女が自分の方へ置いたコーヒーは、マドラーらしきものは見えない。ブラックで飲むのか、大人だな。どうでもいいところに感心をして、徐に自分の分を覗き込む。砂糖もミルクも全てセットされたそれに、惑いが生まれ、固まり、苦々しい笑みが浮かんだ。有難うございます、と礼は言えたものの、気恥ずかしくて彼女のことは見られていない。

 すると「あの、何か」と不安そうな声が、朔太郎に向けられる。何かも何も、と思いつつ見た彼女は、不思議なものを見るような目付きをしていた。あぁ、無意識なのか。そう思えば、余計に心がかき乱される。


 彼女は、ミルク二つと砂糖一つをそこに添えて来た。大抵こういう場合は、一つずつ若しくはある程度入れられた物が添えられているものである。自然と朔太郎とコーヒーを結びつけ、この数を手にしたのだろうか。一緒にコーヒーを飲んだことなど、もう十年以上前のことだ。まだ子供の舌には苦いそれを、甘く誤魔化しながらも、大人になった気でいた頃である。いや、これは偶然かも知れない。それなのに、朔太郎の胸にはさざ波が立ち始めていた。


「早速ですが、この屋内栽培が大きく左右すると考えています。これは、マストだという認識でよろしいですか」


 淡い思い出を引っ張り出してしまう前に、自分から線を引くように慌てて打ち合わせを始める。彼女はそれほど気になっていないようだ。 資料に手を伸ばし、右手には赤色のボールペンを握った。


「そうですね。そこから収穫したものを食事に入れて、出来れば子供たちに興味を持ってもらいたい。意外とどんな風に出来るものなのか、知らない子って多いでしょう?」

「うんうん、なるほど。そうすると、やはりカフェの方に客が流れて欲しいですよね。そうなると……」


 彼女の話を聞きながら、頭に浮かんだ案を描いて見せる。そんな正確なものではない、ただのラフである。それでも彼女は、コロコロと表情を変えながらそれを覗き込んだ。朔太郎はそれが擽ったくて、口元が少し緩んだのが分かった。そうしているうちに、何だかこんな風に昔過ごしていたような、そんな記憶が蘇り、ついノスタルジックな気分になり出していた。

 彼女はどう思っているのだろう。今は大分警戒心が薄れてきたように見える。昔のような関係を望んでいるわけではない。だが、秘密にせざるを得ない過去が、罪を犯したような後ろめたさを朔太郎に植え付けていた。

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