第六話 記念すべき一枚目


 二人で話し合いを始めて、一時間少し経ったろうか。トントン、と扉を叩く威勢のいい音で、ハッと我に返る。彼女が慌てて席を離れ、「どうぞ。結構捗ってますよ」と誰かに応じた。不思議に覗き込めば、彼女の上司だという野村である。よぉ、と手を挙げ、ニコニコしながら入室して来た。


「おぉ、バイトくん。久しぶり」

「野村さん、お元気でした?変わらないですねぇ」

「そうか。少し腹が出てきて悩んでるけど」

「ぷっ。そんなの気にするタイプでしたっけ」

「いやぁ、娘に言われちゃうんだよ。パパ、おデブって」

「結構、ズバッと言いますね。娘さん」


 久しぶりに顔を合わせると、懐かしさのあまり互いに話が止まらない。昔のようなノリで話しているが、彼も年を取ったなと思う。引き締まった体をしていたが、彼の言うように腰回りがだらしない。年齢的なものもあるのだろうと察するが、自分もあぁなるだろうかという不安が過った。

 彼女は二人の馬鹿話を止めることはなく、呆れるでもない微笑みながら見ていた。ふんわりした時間が流れ、何だかカフェで茶でも飲んでいるようだった。そんなどうでもいい話を聞きながら、彼女がどことなく何かを気にし出したような気がした。


「野村さん。彼は、田中さんですよ。もう、バイトくんじゃないって言ったじゃないですか」

「お、そうだった。すまん、すまん」

「いや、いいですよ。まだ今月はバイトなんで」


 海がキリリとした表情で野村に指摘すると、昔の記憶がフッと蘇る。この子はそう言う線をきっちり引く子だった。きっとこの前に、海は野村に指摘したのだろう。あぁ、そうだ。何でも難しく考えて、一人で悩んでばかりいたんだ。そうやって悩む姿は可愛らしく見えてもいたが、一緒に居て窮屈だったことが思い出していた。


「それで、どこまで進んだんだ」

「ええとですね、これはここの壁に設置して、摘み取りながらカフェで提供をする。そうすることで、より新鮮なものを出すことが出来ますし、お客様が触ったりすることもなくなります」


 海はさっき描いたラフと図面を並べ、隈なく説明を始める。時折挟まれる野村の質問にも、抜かりなく答えた。そう、こうやって手を抜くことはしない。それを目の当たりにし、また一つ彼女の悪いところを思い出してしまう。


「木下さんは、真面目なんですね」

「えっ」

「あっ……」


 想起された出来事が、そう言わせていた。真面目で融通が利かない。彼女はそういうところがある。簡単には変わらないのだ。だけれどもつい口走った言葉に、フォローの言葉も浮かばず右往左往するしかない。


「そうなんだよ、バイト。木下は少し硬いんだよなぁ。よく分かったね」

「あ、いや。細かに説明されていたので、つい。すみません」

「いえ、いいんです。昔から真面目で融通が利かないって、皆に言われてきましたから」


 そう彼女は表情を緩めたが、目奥は一つも笑っていない。そうして独り言のように、「どうしたらいいのか分からないんです」と微かに呟いた。朔太郎は胸が痛む。彼女の言う『皆』に、自分も含まれているからだ。


「でもな、バイト。木下は、ちゃんと周りを見てる。今は誰をフォローすべきか、きちんと見てるんだ。真面目だからミスも少ないけど、ちょっと抜けてて可愛いところもちゃんとある。な。だから、あんまりズバッと突っ込まないでやってくれよ」

「すみません、本当に」


 いいんですよ、と明るい声色で言うが、彼女は朔太郎を見なかった。

 野村の言うことも確かだ。海はクラスの中をいつも隈なく見渡し、手助けが必要な子には、自分の事を投げ出してでも手を差し伸べていた。堅苦しくて、面倒で、悪いところばかりに目が行くようになり、勝手に窮屈になった。野村のように、視点を変えて見ることなどしなかったのだ。若い頃の恋だったとは言え、酷い話である。 「よし、今日はこれくらいにするか」と野村がポカンと頭を叩かなければ、朔太郎は心から落ち込んでいただろう。



「あ、そうだ。バイトの歓迎会するか」


 会議室を出ると、徐に野村がそんなことを言い出す。もう完全に仕事のことを忘れたようだった。これはもう有無も言わさない顔である。


「会いたがってる奴らもいたし。森本さんたちと皆でさ。どう?」

「本当ですか。じゃあ、開いてもらおうかなぁ。そうしたら、木下さんも来てくれますか」

「えっ。あ、勿論です。参加させていただきますね」


 ようやく彼女が笑った。

 彼女がいれば決して酔えないだろう。だけれども、隙を見てきちんと謝ろうと思った。あの頃のことをではない。今さっき言ってしまったことを、である。


「今夜だと急だから、金曜にしよう。場所はこっちで押さえて連絡するから、森本さんにも話しておいて」

「了解です。楽しみにしてますね」


 野村は頬を緩めると、直ぐに腕時計に目をやり立ち去った。彼もまた、何も変わっていない。千佳子もそうだろうか。

 呑気に別のことを考えた朔太郎に対し、海は硬い表情のまま。無言で入口まで送ってくれた様が、傷付いたことを体現しているようだった。


「では、失礼します。今日の件は、森本と話を詰めて早めに連絡しますので」

「了解しました。よろしくお願いします」


 今謝るべきか、と考えていたが、ニコニコとこちらを見る受付の女性が視界に入る。変な噂になってしまっては申し訳ない。


「あ、そうだ。今日名刺が出来たんです。改めまして、森本デザイン事務所の田中朔太郎です。よろしくお願いします」

「は、はい」


 貰いたての名刺。手渡したそれをじっと見て、有難うございます、とようやく笑った。記念すべき一枚目だ。そんなことは言わないけれど、多分この子は綺麗にファイリングするだろう。

 ミノリを出ると、一気に変な汗が出始めた。安堵と、疲労と、色々混じり込み、もう何もしたくないくらいに疲れている。あぁ。懐かしいことを思い出し過ぎて、あの頃のように呼んでしまわなくて良かった。『木下さん』でも、『海』でもない呼び方。いつかは無意識に言ってしまいそうで怖くなる。今後はより身を引き締めなければいけない。

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