第三話 心の中の聖職者

 少しリニューアルをしていた駅を降りて、良く通った道を歩く。何か変わったところはないか、などと探しながら辿り着いた森本デザイン事務所。深く深呼吸をして、朔太郎は前を見た。懐かしい扉に手を掛けると、キィと音が鳴る。これは変わっていない。


「こんちは」


 改めて挨拶に来たのだ。手土産ぐらい買って来るものだったか。一歩足を踏み入れてからそう思うが、今更手遅れである。


「お、バイトか?奥だよ、入って来い」

「はぁい。お客さんですか?」


 何だか楽しそうな声の聞こえる奥の方から、森本が呼び入れる。するとパーテーションの向こう側から、花枝が顔を出し手招きをした。まるで昨日も会っていたかのように何も変わらない。物の配置も仄かに香るコーヒーの匂いも、何もかも変わっていない気がした。


「ほら、バイトくん。ご挨拶なさいな。今、新店舗のご依頼を受けている会社の担当さんよ。ほら、野村くんのところの」

「あ、あぁ。今日は野村さんじゃないの?」


 野村、という懐かしい名前に頬が緩んだが、そこにいるのは違う人らしい。事務所の奥へ向かう朔太郎に、花枝の弾んだ声が話し掛けた。担当というのは女性だろう。トーンの高い声が、さっきから聞こえている。

 初対面、しかも今後仕事をする相手だと分かると、やはり印象を良くしておきたいものだ。出来るだけ優しい表情を作り覗き込んだそこは、森本夫妻と二人の女性が話しているところだった。こんにちは、と挨拶をしようと目を合わせた女性に、朔太郎は固まる。ボブの髪をクルリと内巻きにしたその人は、眼鏡こそ掛けていないが、おかっぱのあの子だ。こちらの反応を見たからなのか、向こうも目を泳がせ、気まずい空気が二人の間にだけ流れた。


「あ、えぇと。初めまして。田中朔太郎です。宜しくお願いします。すみません、まだ名刺がなくて」


 防衛本能、とでも言おうか。ここは初対面の振りをしよう。ほんの数秒の間に、そう決め込んだ。掌が何だか汗ばんでくる。三人に変に思われたらいけない。彼女も察してくれるだろうか。


「あ、いえ。は、初めまして……ミノリの木下海、と申します。よ、宜しくお願いします」


 彼女が差し出す名刺が、酷く震えている。整った髪や肌。大人になった仕草。それを意識すれば、朔太郎も心が高鳴った。ベリータと同じように笑っているのか、そう思い起こしていた彼女が目の前にいるのだ。久しぶりだね、と言ってしまいたいのを堪えて、平静を装った。畑中優奈、というもう一人の女性は、きっと海の後輩だろう。幾分か自分たちよりも若さがあるように見えた。



「バイト、ポルトガルどうだった?」


 ぼうっと彼女たちの名刺を眺めていた朔太郎に、森本が問い掛けた。少し驚いた顔を向けたのは、ポルトガルとはなんだ、ということである。


「ん、森本さん。俺、スペインに行ってたんですけど」

「あれ?ポルトガルじゃなかったっけ」


 まぁ隣だから似たようなものだが。

 森本は少し抜けたところがある。そこが可愛いのよね、とよく花枝は笑っていたけれど、今も同じだろうか。


「野村さんはトルコ、千佳さんはカナダって言ってましたね」


 思いもよらぬ人が、その話を広げた。海である。え?と間抜けな声を出した朔太郎に、彼女はハッとしたように慌てて謝った。


「あ、すみません。こちらに伺う前に、うちの野村と林がそう話していたもので」

「野村さんも、千佳ちゃんも酷いなぁ。誰も覚えてなかったじゃん」


 そう不貞腐れて見せると、海は「二人ともハズレですね」と笑った。あの頃と同じように、目を細めて、ニコッと。 それは、朔太郎を明らかに安堵させていた。

 最後に記憶されている彼女は、苦しそうに泣いていたのだ。どんなことがあって、そうなったのかは覚えていない。あれからもう十年以上の月日が経ち、彼女もきっと忘れてしまっただろう。あの青い時代の恋など、もう昔のことだ。


「あ、こんな時間。私たちそろそろ戻らないと。いつもお茶飲みに来たみたいで、すみません」

「プランについては、練直ししてみるから。メールするね」

「よろしくお願いします。あ、バイトさん。いや、田中さんですね。来週からよろしくお願いします」


 柔かな顔で朔太郎を見た彼女に、ドキリとした。綺麗になったな、と思ったのだ。化粧も派手ではない。髪も整えられているだけ。そこは昔と変わらないはずなのに、キリリとした表情の彼女は『大人の女性』だった。そう淡い気持ちが浮かんだだけに、自然に「田中さん」と言う彼女に寂しさを覚えた。ビジネスである、と線引きをしたのだろうが、少しだけ面白くなかった。


「こちらこそ、よろしくお願いします。木下さん、畑中さん」


 倣ってそう返したが、ほんの一瞬だけ、彼女の笑顔も歪んだ。もしかすると、同じように思ったのかも知れない。見つめ返すわけにもいない視線は、無意識に彼女の左手を捉えた。短く整えられた爪と何も付いていない指。あぁきっと、彼女も結婚していない。

 二人は姉妹のようにじゃれ合いながら、楽しそうに帰って行った。その後ろ姿は高校時代に廊下で見たような、そんな明るいあの子の表情だった。まだ、ドキドキしている。気を遣って勿論疲れた気もあるが、何よりも胸のざわつきが煩い。


「あの子たち、いい子なんだよ。頑張り屋さんでな。バイトと同じくらいかな」

「あぁそうかも知れないですね。木下さんの方が近いかなぁ」


 素知らぬ顔して、そんなことを言う。近いも何も同級生だが、そんなことは言えるわけもない。海も隠そうとしているのだから、こちらから馬脚を露すようなことはしてはいけない。森本は何も気にならないだろうが、花枝はそうかいかない。こういうことは、女性の方が敏感なのである。花枝が疑問を持てば、きっと直ぐに千佳子に話が渡る。そうなれば最後だ。

 森本は何も気に掛からなかったようで、直ぐに仕事の話に切り替えた。スペインはどうだったか。どんなことを勉強したか。そんなことも交えながら、仕事の変更点や案件について説明をする。そうして手始めに、ミノリの案件サポートを、と付け加えた。理由は簡単だ。今日会ったから、と言うそれだけだ。


「三月いっぱいはまだバイトだからな」


 ニヤリと口元を緩める森本に、分かってますよ、とムスッとした。まるで子供のように朔太郎を扱う彼は、それをニヤニヤと見ながら「来月からは一人で任せる事も出るかもしれないけどな」と言い継いだ。まだ、何も見せていない。今日なんて、ほとんど茶を飲んだだけだ。それでも森本は、朔太郎を信頼し、期待をしてくれている。それを感じると、つい喜びを頰に浮かべた。


「じゃあ、来週からよろしくお願いします」

「お、少しは大人になったな」

「幾つだと思ってるんですか。もう三十ですよ」

「そうかそうか。じゃあ気を付けて帰れよ」


 目を細めて頷いた森本は、まるで父のようだった。いつも母に「仕方ないわねぇ」と言われながら、色んなことをやっては楽しそうに生きている父。あぁ母と花枝も似ているのかも知れない。そうか。だから、ここは居心地が良いのだ。

 またそこで働ける喜び。成長した自分を見せることが出来る。海に会ってしまったのは想定外だが、仕事は仕事。朔太郎も線引きしなければならない。




「ちょっと綺麗になったな」


 自宅の最寄り駅を降り、小さな商店街を抜ける。部活帰りだろうか。大きな荷物を背負った高校生たちが、朔太郎の脇を自転車で通り過ぎた。飲み屋の暖簾をくぐる親父たちは、既に大声で喋っている。朔太郎の独り言など、誰にも聞こえていないだろう。

 海は、この十二年どうしていただろうか。そんなことは知る由もないし、どうだっていい。ただ、笑っていて良かった、と心の中はいっぱいになっていた。


「朔、おかえり」

「えっ。あぁ、ただいま」


 ガチャリと鍵を開けると、ほろ酔いのベリータが缶ビールを片手に迎え入れた。それに戸惑いながら、朔太郎はよそよそしく自分の家に入る。海のことばかり考えていたせいか、ベリータが居る事をすっかり忘れてしまっていたのだ。


「ねぇ、朔。今日はこのままベッドに行きましょうよ」


 妖艶な笑みを浮かべたベリータは、朔太郎にしなだれ掛かり、耳元で愛の言葉を囁き始める。夕べまではそれでも良かった。だが、今の朔太郎には煩わしくて仕方ない。心のやかましさに目を瞑り、身を委ねる事は簡単だ。今までだって、どちらからともなく求め、寄り添い合い、深く考えず体を重ねて来たのだから。それなのに今夜は、そうしたらいけない気がしていた。それもこれも、昔の様に無邪気に笑うあの子を見たからだろう。


「ベリータ、ごめん。今日はこれからまた、外に出なきゃいけないんだ」

「そうなの?残念ね」

「それと、明日からは仕事の準備をしなきゃいけなくなった。帰国する時は送っていけると思うけれど」


 咄嗟に嘘を吐きながら、罪悪感で胸が一杯になる。勝手だ。凄く勝手な話だ。そう分かりながらも、今夜は一緒に居られないと思った。朝はあんなにベリータを意識していたが、それが今はどうだ。ズルズルとこんな関係を続けてはいけないと、急に聖職者のような自分が湧き出ていた。勿論、これまでも全く思わなかったわけではない。心の片隅では、寂しさを埋めるために体を重ねているだけと理解していたし、長く続けるものではないと小さく思っていた。

 それが急に大きく主張し始めたのは、全てあの子に会ってしまったからだ。昔と変わらずに、いや随分と綺麗な大人になって、彼女はあの頃のように笑っていた。それに比べてしまうと、朔太郎の十二年は堂々と言えるようなものではなかった気がしたのだ。適当に荷物をバッグに放り、振り向きもせずに自宅を出る。行く当ても何もないまま、気持ちを片付けるために、朔太郎は夜の喧騒に身を滑り込ませた。

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