第二話 僕とベリータ

『朔、元気にしてる?来月、日本に行く事にしたわ。朔の所に泊めて』


 久しぶりにスペインのことを思い出したのは、つい先週である。まだ寒い二月の夜道を帰って来た朔太郎は、耳まで被せたマフラーを解きながら、メッセージの受信を知らせる携帯を覗いていた。発信元はベリータ。ほぼ決定事項だけを知らせるメッセージが、実に彼女らしい。

 短いその文面を読みながら、溜息がつい零れた。どうしてこうも自分の気持ちは後回しにされてしまうのか、納得がいかなかったのだ。 朔太郎は、縛られる関係が好きではない。ベリータとも特別な関係ではなく、スペインで仲の良かった彼女、と言う程度だ。


『ベリータ、久しぶり。急だね。ねぇ、僕の都合とかは無視してる?』


 早々に返したメッセージは、少しぶっきらぼうだった。

 別に、来て欲しくない訳ではない。ただ日本での生活では彼女を思い出す事が少なくなった、と言うだけだ。時々は連絡が来れば、近況を話した事もある。

言ってしまえば、その程度なのだ。友人が来る、と思えばいいだけだが、彼女は恐らくそうはいかない。面倒だな、と思う気持ちが直ぐにぽつぽつと湧き始めていた。


 ソファーに座り、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを開ける。酒で火照った体内に、スッと心地良い冷たさが落ちていった。日本が日付を越える頃ということは、向こうは夕方か。こっちの窓の外には、まだ冬の張り詰めた空気が夜の街を包んでいる。


『朔。あなたと私は、自由な関係じゃない。だから、ダメならダメでいいわよ』


 ダメならダメでいい。では、断るか。けれど、ダメだと突っぱねるほどの理由がない。だからと言ってあやふやに断れば、ベリータはやって来るのだ。いつもそうだ。そして、笑顔で言うのだろう。「朔が会いたいと思って、来たわよ」と。ここにも朔太郎の意思などない。

 いつも少し強引で、何時でも笑顔で乗り切る。それがベリータという女性なのだ。


『わかったよ。何しに来るの?観光って言われても、一緒に行く時間はきっとないよ』


 文面には、既に面倒であると書かれているようなものである。それでもきっと彼女は気にしない。


『大丈夫。そのくらい一人で行けるわよ。子供じゃないんだから』


 朔太郎より三つ上の彼女は、自立した女性だ。子供のような心配など要らないのは、よく分かっている。来る日が決まったら教えて、と結局はそう返信し、溜息を吐きながら携帯を置く。その微かな音は、夜の静寂の中にあっという間に消えて行った。




 結局、三月に入るとベリータはやって来た。卒業式も終わり、そこまで忙しい訳でもない。そんな頃である。


「朔。会いたかったわ」

「ベリータ、久しぶりだね」


 迎えに来た東京駅で、朔太郎は熱く抱擁されている。フワリと香る、ベリータの少し甘い匂い。スペインを思い出し、懐かしくて少しホッとする。そんな匂いだ。珍しく時間通りに来たね、と嫌味な言い方をして、心が落ち着いたことを濁した。時間にルーズだと言われるスペイン人は、本当にいつ着くのか分からない事が多い。だから今日もカフェでのんびり待つつもりで来たが、意外にも彼女は時間通りにやって来たのである。余所見をせずに予定の電車に乗れた、と言うことだろう。まぁ彼女は、他の友人たちよりは比較的時間を守る方ではあった。あくまで比較的、だが。

 

「明日は、学校あるの?」

「ないよ。もう卒業したからね。明日は、どこか行くなら付き合えるけど」

「本当?そうしたら、浅草に行ってみたいの」

「浅草?あぁ分かった。ついでにスカイツリーとかも行く?動物園?」

「そうね、朔の好きな方でいいわよ」


 ベリータは、特に目的があって東京に来た様子には見えなかった。これは一昨日知ったのだが、彼女は数日前には日本に来ていたらしい。京都や奈良を巡り、今日は新幹線で東京へ来たのである。それだから、所謂『日本らしい物』は見終えたと言うことだろうか。


「いつまでいるの?」

「予定は一週間ね。あ、でも。朔が帰したくないって言うなら、まだ居られるわよ」


 舌をペロッと見せ、彼女は笑う。懐かしいな、と思った。

 この笑顔は、昔付き合っていたよく笑うあの子を思い出させた。もう十年以上前の話である。ニコッと晴れやかに笑うあの子に、若かりし朔太郎は心のどこかで救われていた。その時のように、いつも陽気なベリータにもまた、朔太郎は助けられていたのだ。


「来週から仕事が始まるから、金曜までならいてもいいよ」

「新しい仕事ね?」

「そう。新しいと言っても、学生の時に働いていた会社なんだけどさ。とてもいい職場なんだ」

「朔、いい顔してる。きっと、すごく居心地の居場所なのね」

「うん。そうだね。あ、金曜までいてもいいんだけど。明後日は、その会社に挨拶に行く予定なんだ。だから、適当に一人で出掛けておいで」

「明後日。えぇと、月曜日ね。分かった。何かオススメあったら教えてね」


 ベリータは、特に深く聞いたりしない。そこがどこなのか。どんな人がいるのか。将又はたまたは、本当に会社へ行くのか。そう言う事は、聞かない。だからこそ、自由な関係であり、ダラダラと続いているのだろう。




「じゃあ、行ってくるから。鍵はこれ。出かける時は閉めてね。なんか困ったら連絡して。電話は出られると思うから」

「分かった。行ってらっしゃい」


 月曜日の朝。朔太郎はベリータに予備鍵を渡し、森本の事務所へ出掛ける。

 久しぶりに森本夫妻に会えるのが楽しみで、駅まで歩きながら少し浮かれていることに気付いた。少しでも成長が見せられれば、スペインでの時間も活きて来るのだから。


 ベリータとは、昨日浅草からスカイツリーに行き、そこにある水族館へも行った。小さな子たちに紛れて水槽を見つめている時、デートでも来たことがなかったことに気付いた。こういう場所は子供が行く所だ、とずっと思っていたからだろう。だけれど、実際はそうでもなかった。配色の美しい魚もいたし、自分の知らない種類が沢山いて、意外と楽しかったのだ。もしかすると、ベリータが楽しそうにしていたからかも知れない。「朔、見て。見て」と腕を引き、いちいち表情を変えた。一番楽しそうだったのは金魚か。桜が咲いていなかったのは残念だったようだが、今度は咲く頃に来るわ、といつもと同じ笑みを浮かべていた。


 朔太郎は電車に乗ると、流れる景色をぼんやり見つめる。

 ベリータとは、一体どんな関係なんだろう。関係性など、朔太郎の方が求めていなかったのだから可笑しな話だ。日本と言う空間――しかも、自分の部屋に彼女がいて、いつものように体を重ねた。その事が、スペインでそうしていた時よりも生生しく現実的に感じられたのか。今朝は、変に意識してしいた気がしている。

 ふぅぅ、と小さくため息を漏らす。気持ちを落ち着けようと耳を傾けた、カタンコトンと電車の揺れる音。あぁこの音が好きだって言ってたな、あの子。ボブと言うよりも、おかっぱのあの子。最後に彼女として認識しているあの子も、ベリータのように今も笑っているだろうか。




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