第二章

第一話 スペインの彼女

「田中さんは就職先決まってるんですか」

「ん、あぁ。昔ね、働いていたデザイン事務所に戻ることにしたんだ」


 若い彼は、流石っすね、と興味津々に朔太郎の前に腰を下ろした。


 卒業が間近になると、こういう話題が至る所で繰り広げられる。まだ若い同級生たちは、社会へ足を踏み出すことに憧れであったり、不安であったり、様々な色を持っているように見えた。田中たなか朔太郎さくたろうは、そんな彼らを微笑ましく思っている。


 「流石って何だよ」と笑ってみたが、これは『流石、そこそこの大人』と言う意味だろう。朔太郎にとってみれば、この年になってようやく定職に就こうとしていることに、恥ずかしさを感じることもある。だから笑ってはいるものの、大半は苦笑いだ。しかし、彼は全く気にしている素振りはなかった。


「田中さんってスペイン行ってたんですよね」

「そうだよ。大学出て、六年かな。色々見て回ったよ」

「有名どころの写真しか見たことないんですけど、本物は違いますか」

「そうだなぁ。平面写真を見て立体を想像するのとは、やっぱり違うかもしれないね」


 やっぱりそうなんだ、と頷きながら、彼はノートを広げた。役目を終えたそれの白紙のページには、色々な国の名前が列挙されている。あいうえお順に思い出し始めたのだろう。アメリカ、アイルランド、アルゼンチン。そう並んだ中で、『スペイン』にだけ赤丸が付いていた。


「卒業旅行って言うんですかね。行こうかなって思い立って。金ないんで沢山は行けないんですけど。行ってみたいなって思ったのがスペインだったんです」

「そうかぁ。だとしたら、バルセロナがいいかも。ガウディの建築は見ていて面白いしね。現代建築も良いものが沢山ある。きっと良い刺激になるんじゃないかな」


 若い彼は、バルセロナですね、と大きく書き込む様を見ていると、隣のページに書いてある項目が目に入った。恐らく出費に必要な項目であろうと思う。飛行機代、ホテル代などと書かれている。お節介ついでに大まかな値段を伝えると、彼は嬉々とした目をして朔太郎を見た。年の差を感じざるを得ない笑顔だったが、何だかこちらも嬉しい気がしてくる。


「ありがとうございます。何か行ける気がしてきました」

「そう?まぁもしも悩んだら連絡して。友人に案内させてもいいし」

「本当すか。あ、彼女さんとかですか」

「いや、彼女って程でもないけど」

「いいっすね。そう言う異文化交流。でも、出来るだけ自分でやってみます。ありがとうございました」


 丁寧に礼を言う若者だ、と朔太郎は思う。十歳差がそう思わせるのだろうが、日本にいなかった時間が余計にそうさせているのかも知れない。

 着の身着のままであの国に降り立った時、朔太郎は彼のように目を輝かせていたのだろうと思う。言葉も話せないまま向こうに行き、出会う人と何となく仲良くなり、必死に覚えたスペイン語。適当な教え方だったから、初めは色んな人に不快な思いをさせたのではないだろうか。まぁ今でも、丁寧に言うにはどうしたら、と聞かれたって答えられる気がしない。本当にいい加減なんだ。

 そうやってスペインを思い出すと、いつもベリータが出て来る。彼女って程でもない女性、だ。久しく連絡をしていないが、元気にしているだろうか。朔太郎がスペインから帰国をしてから、もう二年の月日が経っていた――




「いい?朔。私とあなたは、出会う運命だったのよ」

「運命かぁ。それって、誰が決めるんだろうな」

「そうね。この運命を決めたのは、私。神様でもないわ」


ベリータは、グラスの中を見つめながらそう言った。神様ではなく、運命は自分が決めた。彼女がそんなことを言っても、別に驚かない。涼しい顔で言って除けるような、そんな女だ。それを見ながら、朔太郎は少しだけ口元を歪ませる。



 ベリータに出会ったのは夕暮れ時、街外れのカフェだった。毎日のように同じ店に行くうちに顔見知りになり、調子どう?なんて他愛もない話をし始めたのが始まりだ。そのうちに互いの仕事や家族、恋の話なんかをするようになり、彼女の友人たちとも飲みに行くようにもなった。朔太郎のたどたどしいスペイン語を真面目に直し、時には本当にいい加減なことを教える。そうやって距離を縮めた二人の間にハードルなどはなく、縛られない関係になるのは時間の問題だったのだ。

 彼女――ベリータの正式名はイサベラである。友人たちは彼女をベリータと呼んでいたから、それに倣って呼んでいたが「私の名前はイサベラよ」と暫くしてから教わった。ベリータ、と言うのは愛称らしい。朔太郎がサクと呼ばれる様なものだ。

 縛られない関係というものは、とても気楽で、居心地も良かった。他の女の子に会う時も、旅に出る時もを連絡をしなくていい。多大に体が空いていれば、その寂しさを埋めるように一緒に眠るだけ。そうやって二人は、空気を吸うように同じベッドで夜明けを迎えるようになっていた。


「朔、また難しい顔してる」

「そう?ちょっと考え事してただけだよ」

「日本に帰るから?」

「うぅん、まぁね」


 日本に帰る事を決めたのは、多少なり自分に自信が付いたからだった。大学卒業と共に何となく日本を発ち、早六年。二十八歳になった自分が先を見て、全く不安がなかったと言えば嘘になる。漠然と過ごした時間を振り返りながら、三十歳になる前に少しだけ先を見た、のである。


 スペインで過ごすことも悪くはなかったが、色々考えた時に思い浮かんだのは学生時代のことだった。

 ここに来るきっかけにもなったアルバイトがある。夫婦でやっている小さなデザイン事務所で、色々な経験が出来る場所だった。漠然とデザインをやりたいとしか考えていなかった朔太郎に、建築というジャンルを見せてくれた場所だ。建造物に興味を持つようになり、地球儀をグルグル回して選んだこの地で、自分なりに色んなことを吸収をした。成長出来たはずの自分を見てもらいたい。そんな気が湧いたのだ。

 また雇ってもらえないか、と連絡を入れたのは先日のこと。彼らは快く受け入れてくれた。これから資格を取るために専門学校に行かねばならないが、それでもそこで働きたい、と強く思っている。




「朔は、日本に彼女いるの?」


 タバコに火をつけたベリータが、クルクルの長い髪をかき上げつつ朔太郎へ問う。まだ、薄暗い窓の外を楽しそうに飛んで行く小鳥たちが、彼女の肩越しに見えた。


「彼女か……そんなの長い事いないよ」

「嘘。いるでしょ?一人や二人」

「ベリータ、彼女を同時に二人持つなんて、俺は好きじゃないな。って、そう言う話じゃないか」


 変に真面目な所が顔を出すと、朔太郎の方が苦笑してしまう。彼女はそんなことは聞いていないのだ。


「一人だけを大切に出来るなら、それでいいのよね。まぁ、そんな人がいるならば、私とこうやって朝を迎えたりしないわよね」


 ケラケラとベリータは笑う。釣られたふりして、朔太郎も笑った。


 日本にいる彼女。そんな人などいない。付き合うとか、付き合わないとか、そう言うやり取りが面倒で、いつの間にか特定の彼女を持つことが煩わしく感じるようになっていた。最後にいたのは、いつだったのか。大体、大学の頃に一緒に居た彼女たちは、果たして『彼女』と呼んで良い関係だったのか。 それすら分からない。

 朔太郎が『彼女』として最後に記憶しているのは、もっと昔に別れた子である。ボブというよりも、おかっぱの髪。少し地味で眼鏡をかけていて、何よりも良く笑う子だった。あの子は元気にしているだろうか。最後に見たのは、初めて見た泣いた顔。今は、笑っているといいけれど。


「ベリータ。僕は、来月日本に帰るよ」

「……そう。分かったわ。ねぇ。朔は、帰って何をするの?」

「まずは、学校に行こうと思ってる。資格を取って、戻りたい仕事があるんだ」

「そう、寂しくなるわね。こうして抱き合う事も、なくなるのね」


 そう言うと、朔太郎の言葉を待たず、ベリータはまた深い口付けを始める。「まだ時間あるわよ」と戯けながら。窓の外は、朝日が昇り始めた。


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