第十話 青春はモノクローム

 

「朔、今日もデッサンするの?」

「するよ、毎日やらないと」

「ふぅん、そう言うものなんだ。じゃあ、またここで勉強してるね」


 受験、真っ只の高三の夏。将来の夢に向かっている友人たちは、分厚い参考書を抱え帰っていく。毎日塾に通っているらしい。夏休み明けに海は、第一希望の大学の推薦入試を受ける事になっている。席を一つ空け座ると、現代文の担当教員に添削を受けた小論文を読み直し始めた。


「そう言えばさ。朔は、将来何になるの?」


 美大に行きたい、とは聞いているけれど、そこから先にどんな職業が待っているのか。海には全く分からなかった。美術教師とかになるのか。画家になるのか。そもそも、画家と言うのは職業名なのか。海の志望学部とは違いすぎて、検討も付かなかった。


「将来かぁ。大学に行ったら考えるよ。デザイン系の学部を受けるけど、専攻以外でもさ、もしかしたら彫刻とか油絵とか、そっちが面白くなるかもしれない。そうやっていろんな物に出会って見ないと、その先どうするかなんて分からないよ」


 互いに手元を見たまま話し始めたが、海は「そういうもの?」と顔を上げた。真夏の燦燦とした陽射しが、教室の後ろの方へ射し込んでいる。そのキラキラとしたものを背負いながら、朔太郎は骨ばった手で鉛筆を塗り重ねていた。


「そうだね、俺は。新しい扉を開けるために、大学って行くんだと思うんだ。決まった扉しか開けないのなら、専門学校とかに行った方が良い気がするでしょう?って、真面目なしーちゃんには難しいかな」


 朔太郎はいつもこうやって、海を真面目だと形容する。勝手にそこに一括りにして、解き放つことはしない。いつもなら適当に流すのに、珍しく癇に障った。どんな学部を専攻するか。そこからどんな職業に就きたいのか。海だって、それは真剣に考え、きちんと調べて選んだのだ。今の言い方は、まるで海を馬鹿にしているような気がした。


「新しい扉、か。私は、野菜とか植物関係の職業に就きたいから選んだんだ。そのために、ボランティアとか部活とかして、推薦取ったんだもん。先を決めて、そこに行くための手段として大学を選んだけど、朔は違うんだね」


 少しだけムキになり始める。朔太郎はこちらを見ることもせず、うんうんと頷くだけだ。あれは、聞いているようで聞いていない。それに苛立ち、海の心はささくれ始めた。


「しーちゃんみたいにね、将来の夢を見つけて、そこに向かうのも間違いじゃないと思う。でも俺はさ、開けた扉の先に違った楽しさがあるなら、それを追ってもいいと思うんだ。ずっとなりたいって思ってきた夢を諦めてでもね」

「そっか。私には考えられないなぁ。朔は、すごいね」


 本当に凄いと思ったのは半分だけ。残りは、悔しさや失望といった『漠然とした何か』だった。それは、腹の中で気持ち悪さを残すものだと言うことだけは違いない。呑気な振りをしてやり過ごそうとするのは表向きだ。冷めた自分が遠くの方から眺めている。


「仕方ないよ。俺たちは、考え方も何もかも違うし。合わないんだから」

「合わない……?」

「合わないよ。だって、しーちゃんは真面目だし。道を逸れるのとか嫌いだろ。俺なんか、逸れてしかいないんだから」


 朔太郎は手を止めぬまま、あっさりとそう言った。怒った声でもなければ、笑っている訳でもない。ただ、デッサンに集中している。海との会話は、終わった頃に覚えているのかは分からない。


「朔。今日は、私帰るね。デッサン、頑張って」

「おぉ」


 軽く手を挙げた彼は、海の方は見ずに黙々とデッサンを続けている。こうやって海が消えてしまっても、朔太郎は気が付かないのかもしれない。そんな事が心を過ぎった。

 それでも、海は朔太郎の絵を描く姿が好きだった。あの骨ばった手が、不器用そうに動く様。それを見つめる真剣な目。ただそれを傍で見ていられれば良かった。受験が終われば、朔太郎も違うことを思うかもしれない。きっとそうだ。そう信じて、海は彼の隣で自分の受験に専念することにした。




「朔、試験勉強はしなくていいの?」


 そう疑問をぶつけたのは、海の受験が終わった秋のことである。毎日デッサンの練習ばかりする彼が、心配になったのだ。第一志望の美大は、国語などの筆記試験がある。でも、その勉強をしている姿を見たことがない。家でやっているとは言うが、思うように結果が出ていないのが現実だ。しかも彼は、文系教科が苦手なのである。


「大丈夫。家に帰ったら勉強してるから」

「本当に?大丈夫なの?」

「うぅん、あのさ。しーちゃん、俺の事は自分で考えてるから。大丈夫」


 朔太郎の声は、明らかに苛ついていた。だけれども、こんなにデッサンの練習をしたって筆記試験がまるでダメでは、受験は失敗してしまう。海の心配は、恐らく先生や親も言っているような、普通のことだ。


「だって、朔は国語も英語も苦手じゃん。一緒にやろう。私もあまり得意じゃないけど、きっとさ……」


 そこまで言った時、「もう黙ってて」と冷たい声が響いた。同時に机を叩く大きな音が、穏やかだった教室の空気を切り裂く。茜色をし始めた夕陽とは対照的に、一瞬で冷え冷えする場に変わる。目を丸くして彼を見た。今まで見たことのない顔をした彼を。


「俺は、この時間はデッサンの練習がしたいんだ。しーちゃんが心配してくれるのは有難いよ。だけど、試験勉強は家でするから。気持ちの切り替えのために、そうやって分けてるんだよ」

「そっか。でも、思うように結果が出てないじゃない」

「やり方は自分に合ったものを選ぶだろ。俺は時間で切り替えるのは上手くない。場所で切り替えをして、ちゃんとやってるから」


 場所で切り替える。単純なことだが、海はあまり考えたことがない。今日の目標を立て、その科目を勉強する。場所は何処だっていい。自分の部屋でも、図書館でも、何ならカフェだって良い。重要なのは、結果の出ない科目を効率的に学習することなのだ。


「そもそも、しーちゃんは真面目過ぎるんだよ。カチカチって枠を決めて動くだろう?俺はそれが苦手。合わないんだよ、考え方も何もかも」


 また、真面目だと、合わないと、言われてしまった。そんなことは、海にだって良く分かっている。二人は、性格がまるで違う。けれども、それは他人だから当たり前だと思って来た。そっくりな性格である方が稀だ、と。それでも今までは上手くやって来たし、笑い合って来たのに。茜色の景色が見る見るうちに、セピア、モノクロームへと変わり始める。


「じゃあ、なんで一緒にいるの……」


 微かな声がポツリと零れ落ちた。ピリピリとした空間には、簡単に琴線に触れてしまうような言葉だ。そうして朔太郎は、何の余韻なく、またもあっさりと言い返した。


「確かに、そうだね。別れようか」


 あの目は、本気だ。そして、絶対に後には引かない。海も間違ったことは言っていないと思ているが、それが上手く伝わらない。言葉にすれば、苛立ちが前面に出てしまう。 嫌だ、と言えばいいのに、ムキになった海は決して言わない。


「……そっか。分かった。もう邪魔しないよ。受験、頑張って」

「あぁ、バイバイ」


 あんなに好き合っていると思っていたが、別れなど驚くほどにあっさりしていた。売り言葉に買い言葉だと言うことは、きっと互いに分かっている。だけれど、どちらも呼び止めることはしない。追いかけることもしない。ただ、それが答えだった。

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