第九話 あれはもう、過去のこと

「佐知、久しぶり」

「本当、いつぶりだろう。なかなか会えないもんねぇ」

「今日はチビちゃん達は、旦那さんが見てくれるの?」

「そう。何だか公園に行って、レストランでお子様ランチ食べるんだ、とかって計画してたわよ。だから今日は、ゆっくりしておいでってさ。あれは、ほら、パパの存在が薄くなっていく事の怯えよね」


 昔よりもはっきり物を言う佐知に驚いたのは、海だけでなかったようだ。理沙も一瞬固まった後で、思わず二人は顔を見合わせた。母強し、と言うべきか。彼女の清々しい様は、日々の小さな幸せから来るのだろうとも思った。


「ねぇねぇ、ここはローストビーフが美味しいってよ」


 今日三人で来たのは、ランチブッフェである。多少は大人になった三人は、ちょっとだけ高いホテルブッフェを選んだ。学生時代は安さが一番、と言った感じで、激選して行っていたものである。質より量と言うよりは、食以外にかかる物とのバランスで、致し方なかったのだ。

 そんなブッフェ――と言うよりも食べ放題、に行っては食べ過ぎ、そのくせ帰り道には菓子を買い込んだりして。別腹が一体いくつあったのだろう、と今思うと恥ずかしいような思い出である。まぁそれでもあの時は、そこそこの体形が保てていたのだから、若さの素晴らしさを実感するだけだ。


「そうなの?珍しいね、佐知。調べたの?」

「だって、一人でランチ出るの久しぶりだからさ。嬉しくなっちゃって。あ、でもこういうことは、理沙の得意分野だった。ごめん、ごめん」


 お道化る佐知に、理沙も「それは私がすることよ」と意地悪に笑った。いつも下調べは理沙。海と佐知は、あれが食べたいと言うだけ。安くて美味しい店を探して来るのも、予算設定するのも、いつも理沙だった。


「皆で集まるとさぁ、昔みたいだなぁって思ったけど、もう流石にホールケーキは食べられないわね」

「それは無理よ。もたれて仕方ない」


 理沙の呟きに、すかさず佐知がキリッとした顔で返す。それの顔があまりにも本気で、二人は腹を抱えて笑った。三人が揃うと簡単に、気持ちだけはあの頃に戻っていくようだった。


「ところでさ。私、メッセージで状況追ってるんだけど、追いつけなかったの。ねぇ海。元カレって、どのダメ男?」


 席に着くや否や、佐知が大真面目な顔をして問い掛ける。綺麗に盛り付けた皿の上の野菜に、海は呑気手を伸ばしたところだ。えぇと、と言葉を濁してみるが、佐知は引きそうにない。まずはこれを聞かないと、と彼女はじっとこちらを見たまま、海の様子を観察しているようだった。


「佐知、あれよ。昔さ、卒業アルバム見せてもらったじゃない。あの時教えてもらった元カレよ。高校生の頃の大好きだった彼」

「あぁ、それか。どのダメ男かって考えちゃったじゃない。覚えてるわよ。未練タラタラだったものね」


 ゴホゴホと咽せる海を差し置いて、理沙は勝手に説明を始める。周囲は自分たちの話に忙しく、誰も聞いてなどいない。それにもかかわらず、何だか聞かれているような気になって、小さく背を丸めた。


「なるほどねぇ。でも、海はまだ好きなんでしょう?」

「佐知、何を言ってるの。そんな訳ないでしょう。もう十二年よ。干支だって一周回ったの」


 昔から大好きなカルボナーラを口に運び、面白がる二人に膨れて見せた。だけれども本心は、全く違う方向を見ている気がしている。好きなのか嫌いなのかと言われれば、それは多分好きなのだ。先日の飲み会の時に感じた嫉妬のような何かは、それを証明するものだと思う。それもこれも原因は、優奈が見てしまった、あの件である。


「あのね。彼は彼女いるみたい。多分、スペイン人の」


 えっ、と二人揃って海を見つめる。佐知に至っては、スペイン人ときたか、と口をぽかんと開けた。力なく笑ったが、余裕のある振りをしてしまうのは悪い癖だ。


「後輩がね、たまたま一緒にいるの見ちゃったって。東京駅の改札でさ。ハグしてたみたいよ」

「えぇ。わざわざ会いに来たのか」

「そうじゃない?やだ、情熱的」


 海のことをさておき、二人は妄想を膨らませ始める。

 やっぱり久しぶりって、盛り上がるんじゃない?帰るなよ、とか言っちゃうのかしら。それでハグ?でも、挨拶みたいなものかもしれないよ。

 海は口をはさめずに、ちらちらと二人を見ながらローストビーフを小さく切って口に運んだ。あぁ確かにこれは、美味しい。


「でもさ、それを聞いて海はどうだったの?正直なところ」

「どうって。特に何も。あ、そうなんだな。ってくらいかな」


そんな訳はない。確かに心は、今でも揺らいでいるのだ。ただ、これはあの頃と同じような恋なのか分からないだけ。幾度と夢に見た朔太郎が、連絡の出来るところに戻って来た。その事実は、何かを期待させているのかも知れない。


「海、いい?後悔だけはしないように。結婚した私から言えるのは、これくらい」

「後悔、か」


 汗をかき始めたグラスの中で、氷がカランと揺れる。寂しそうな音は、喧騒の中で儚く響いた。


「それだとしたら、私たちはこれ以上の関係になることはない、かな」

「そう?また昔みたいにって思わなかった?」


 ぐいぐいと攻め立てる佐知と心配そうに覗き込んだ理沙。大丈夫よ、という表情に徹して、海は正直に話すことにした。


「昔みたいに、かぁ。そうね、全く思わなかったわけじゃないかな。でも私、フラれた方なの。それも、何もかも合わないって。それって、歳をとったからってどうなる話でもないじゃない」


 いつも通りに、なんて事ない話だと笑い飛ばした。ずっと引き摺って来た恋を昇華するには、きっとこれが最後のチャンスなのだ。ようやく別れたあの夏から、歩き出すことが出来る。あの夢に出てくる卒業式の日も、忘れられるはずだ。

 これまでの経緯を見聞きしていた理沙は、深く掘り下げることを避けたようだった。甘い物食べない?と二人を誘い、さり気なく雰囲気を変えてくれる。それもこれも、佐知は甘い物に目がない、と言うことが織り込み済みだからだろう。小さくカットされたケーキの並ぶトレイを見て、佐知も気が逸れたようだ。直ぐに目を輝かせる。これは箸休めよね、と確認するのを見て、少しだけホッとしていた。

 それから、佐知の子供の話と旦那の愚痴を聞き始めれば、時間などあっという間だ。どちらの話も、海と理沙には助言をすることも出来ない。つまり、佐知が言いたいことを言って、それを聞いているだけである。



「ところでさぁ、そんなに合わなかったの?」


 話が逸れて安堵していたのに、佐知は最後のデザートを目の前にして、また蒸し返した。自分の話をして、理沙の話も聞いた。佐知にとって解決していないのは、海の恋愛話だけだったのだろう。

 

「うぅん、そうね。合わないんだわ、確かに」

「でも付き合ってたんでしょう?」

「例えばね、新しい何かに出会うとするじゃない?未来にどう活かせるかって考えて、確実な情報を調べ上げてから動く私。簡単に、今を捨てられないから。きちんと地を固めてからじゃないと、絶対に動かない」

「確かに、海はそうだよね。きっちり足場を作ってから動くタイプ。でも、どこか抜けてるから、穴はあるんだけど」


 佐知は、それは可愛い所よ、と付け足して、小さなイチゴのタルトを口に運ぶ。 昔よりも少しふくよかになった頬が、むにむにと動いた。


「でも、彼は違う。今ある生活がどれだけ安定していたとしても、出会った新しい何かが楽しければ直ぐに捨てて動ける。だから、ふらりと海外に移住が出来たのよ」

「あぁ、なるほどね。それだから惹かれたんだ、彼に」


 理沙はうんうん唸り頷く。そう言われてしまうと、そうなのだろうか、と思ってしまうのが簡単な女だ。そうなかなぁ、と言いながら口に入れたシュークリームが、やけに甘くて一気にコーヒーで流し込む。目一杯に広がった甘味が、青春時代の甘い時間を思い出させて後味が悪かった。

 

「やだ、理沙。良いこと言う。そうね、持っていない物を持ってる。それだけで十分に惹かれる要素はあるもんね」

「あるけどさぁ、佐知。これ、おばちゃんだよ」


 呆れながら理沙が、佐知が思わず付けた手を真似して見せた。あらやだ、と言いながら、また付けられたそれ。腹を抱えて笑ってしまい、理沙のシィと指を立てたのを見て自重する。こうやって三人で笑っていれば、どんな恋だって直ぐにどうでも良くなった。浮気をされてもそれほどに引き摺らずに、あんな男、と笑い飛ばせたのだ。朔太郎と別れた時に彼女たちに会えていたら、一体どうなっていただろう。こうやっていつまでも、前に進めないことなんてなかったろうか。

 朔太郎との時間は、このまま続いて行くのだろう、と何の疑問も持たなかった。そうならない未来などないと、疑うことすら知らなかったのかも知れない。まだ若かったのだ、あの時は。

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