第八話 恋の話
開始から一時間。陽気な会話があちこちに溢れ、声も大きくなり出した頃、森本と花枝が遅れてやって来た。野村が森本を呼び止め、花枝だけがこちらへ来て、三人でささやかに乾杯をしたところである。
「海ちゃんは、最近どうなの?」
飲み始めた花枝が、向かいに座る海へ徐に問い掛けた。急に何を、と目を丸くする海には目もくれず、ただニコニコと答えを待っている。
「何ですか、藪から棒に。皆さんにお知らせするようなことは、何もありませんよ。どうせ男運もないですし」
「そんなことないわよ。ねぇ、優奈ちゃん」
「いや、花枝さん。そんなことありますって。初めて聞いた時は驚きましたよ。そんなクズ男ばっかり集まりますかって」
そう言われてしまうと、返す言葉もない。優奈にそんなに話をした覚えもないのだが、恐らく純也のことを言っているのだろう。別れた時にでも愚痴を言ったのだろうが、あまり覚えていない。まだ酔っていないはずの森本の浮かれた声が聞こえる。花枝はそれを目を細めて眺めていた。
「そうねぇ。この前のね、彼は酷かったかも知れないね」
「そうですよね。あんなの別れて良かったんですよ」
「いや、あんなのって」
そう言われても仕方のない男だけれど、そこまで言わなくても、と言う気は多少ある。失笑が漏れ、情けなくグラスに口を付けた。早くこの話題が終わらないかと、最早祈るしかないな、とそう思った時だ。
「何の話ですか」と聞こえて来た声の主に青褪めた。顔など見なくたって分かっている。多少は酔い始めたのだろう。陽気な朔太郎の顔が、花枝の隣に並んだ。海の恋愛話をしているという一番最悪なタイミングで。
「海ちゃんがね、男運ないって話よ」
「いやいや、話さなくていいでしょう。やめましょう、ね」
「いや、田中さん聞いてくださいよ。本当に海さんって男運が悪くて。聞けば酷い男ばっかりなんですよ」
「優奈。やめなさい」
気不味くて、下を向いたまま目を泳がせた。こういった話題になると、この二人はしつこい。いや正確には、優奈だけが延々と喋っている。花枝はいつも、うんうん、と聞いているだけか。
「だって海さん。クリスマスの時の彼、酷かったじゃないですか。何で男って浮気するんですかね。田中さん」
「いや、俺に聞かれても」
「男じゃないですか」
「あぁ、まぁそれはそうだね。代表して言える立場でもないし、一概に言えないんじゃない?男が皆浮気するわけじゃない。森本さんとかしないでしょう」
「あ、確かに。森本さんはしない」
優奈が饒舌に繰り出す問い掛けに、海は全身から汗が噴き出すようだった。最も聞いて欲しくない相手が、目の前にいる。彼だって、昔付き合っていた女の恋愛話など聞きたくもないだろう。チラチラと朔太郎を見ると、何やら目配せをしているようだった。
「木下さんって俺と同じくらいかなぁ」
「え、あぁ年ですか。今年三十になりました」
「あ、やっぱり。俺も同い年です。今どき、結婚が全てって感じじゃないですよね?違います?」
「確かにそうですね。結婚しても仕事は続けるって考えの子も多いですし。スキルアップに時間を割いて、恋愛なんてそこそこですね」
理沙を思い浮かべ、話を合わせた。年齢なんて、聞かなくたって知っている。
それなのに、白々しく話を進めるのは、ちょっとだけ愉快だ。上手くいった、と彼も思っただろう。互いに緊張が解けた表情をした気がしている。
でもそう簡単に、彼女たちがこの話題を手放すわけがなかった。
「そう言うけどね。結婚なんていいの、しなくたって。でも私はね、恋はしてた方がいいと思う。女の子は絶対に」
その話は、海だけではなく優奈も驚いたようだった。結婚はしなくても良い、と彼女が言うのは想像が出来なかったのである。森本との関係を見ていると、結婚に幸せな意義を見出しているものだと思っていた。だから、ちょっと意外だったのだ。結婚はした方がいいんじゃないですか?と聞き返す優奈は、心なしか膨れっ面をしている。
「うぅん、そうねぇ。海ちゃんの言うようにね、結婚が全てではないのよ。ただ女の子はね、恋をしていた方が綺麗になるから」
「はぁ、そういうものですか」
「あら、バイトくん。そういうものなのよ」
「そうそう。そうなんですよ、田中さん」
朔太郎は居心地が悪そうに、はぁ、と答えるだけだった。
恋をしていた方が綺麗、か。それはそうかも知れないが、彼の居ない時に聞ければ良かった。今の状態では、なるほど、とすら言えない。
「俺、ちょっとトイレ行ってきます」
上手いこと逃げた朔太郎にホッとして、海は目の前の枝豆を一つ手に取った。今の話を聞いて、どんな女の子を思い浮かべたのだろう。外国の綺麗な彼女を思ったのだろうか。海の見たことのない彼女。グラマラスなんだろうな、と勝手に想像しては、自分の真っ平な胸に溜息を零した。完全に負けだ。
「海さん。恋はしましょ。多分、慎重に行けば大丈夫ですって」
「うんうん、そうよね。私もそう思うわ」
きっと優奈の今の言う意味は、朔太郎のことだ。流石に周囲に気遣い、固有名詞は控えたのだろう。それでも横から来る目線は、何かを強く訴えかけていた。
「分かりました。そう言う機会があったらね。頑張ります」
「そう来なくっちゃ。ねぇ優奈ちゃん」
「そうですよ」
「出会いから慎重に探すことにします。さて、飲み物追加して来ますね」
自然にその場を離れる。なくなるビールなど、本当はどうでもいい。しつこい優奈と純粋にそこに乗ってしまう花枝から逃げるには、何でも良かったのだ。店員にビールの補充を頼み、海は直ぐにトイレへと足を向ける。きちんと礼を言うために、そうしているのだ。胸が強く鳴る。彼が出通るはずの通路で、壁にもたれ掛かかりぼんやりと空を眺めた。
「し……木下さん」
「あ、あの。待ち伏せみたいにして、ごめん。お礼を言おうと思って。さっき気を遣わせちゃったから。でも、助かりました」
「いいんだよ。年なんて知ってるのに、言いながら何言ってんだって思ったけどさ」
「あ、うん。だよね。でも、ありがとう。嬉しかった」
何を言っているのだろう。嬉しかった、と言う程、助けられてはいない。耳が赤くなるのを感じると、一気に恥ずかしさが増した。
「あのさ。俺も一つ言いたいことあって」
「ん、何?」
「この間さ、真面目だねって言っちゃったから。ごめんね。それ謝りたかったんだ。いや、あの時謝ったけどさ。そう言うことじゃないなって思って……多分俺、昔も言ったろ。だから傷付けたんじゃないかって」
朔太郎は頭を掻きながら、纏まらないままの言葉を並べた。昔のことなんて、今更謝られても仕方がない。確かにあの時は傷付いたけれど、その記憶が塗り替えられるわけではないのだ。
「朔、いいの。本当の事だし、もうそれは昔のことでしょう。そんなの、今になって謝られる方が、かえって傷付くよ」
出来る限りの力で微笑んだ。もう忘れて、と付け加えて。
こんなことを掘り返される予定ではなかった。ただ礼を言って、少しだけ彼の時間に触れたかっただけだ。朔太郎には彼女がいる。だからほんの一瞬だけ、彼の時間が欲しかった。
「田中さん。まだ飲みます?」
「うぅん、木下さんは」
「まだ飲みます」
「よし。じゃあ飲もう」
もう高校生の海でも、朔太郎でもない。十二年も経てば、干支だって一周するのだ。それくらいの時間が過ぎていて、互いに知らない時間がそれだけある。
仕事でたまたま会ってしまった。それだけのこと。恋はもう進むことはない。彼に彼女がいるように、互いの時間は既に離れたところで動いているのだ。
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