第七話 運命とは言わないで
「そんな端にいないで、もっとこっちに来なさいよ」
朔太郎の歓迎会に足を運んだ海は、早々に千佳子に捕まる。参加すると答えたはいいが、あまり接点を持つのは得策でないと判断した。だから机の端の方に陣取り、こっそりしていようと思ったのだ。
「いや、懐かしい方が囲まれた方がいいですよ。私たちはついでみたいなものですし」
「そう?まぁ始まったらどうせ動いちゃうからね。その時は少しは絡んでおくのよ。ほら、仕事がスムーズに行くから」
「そうですね。では、後程」
適当に往なした海の右脇を、優奈が小さく突いている。あの打ち合わせの時から続いていた作戦は、今日も実行されているのだろう。少しは話しましょうね、と背を押しているつもりの目は、爛々と輝いていた。
「お、早かったな」
一段と明るい野村の声が聞こえる。飲む前からあの声色ならば、この飲み会を楽しみにしていたのだろう。周囲も暖かく迎え入れた彼は、ジャケットを抜きながら野村を弄り始めた。久しぶりに会う面々は、元気だったか、なんて声を掛ける。あぁ本当にここに彼はいたのだな、と改めて気付かされた。
「森本さんたちは、少し遅れて来ます。主賓は早く行けって」
「はいはい、花枝さんからも連絡着てるから。もう、とりあえず飲むよ」
「千佳ちゃん。元気にしてたの、とかないわけ?」
「無いわよ。だって、元気でしょうよ」
千佳子のいつもの反応に、周囲からはドッと笑いが起こった。皆にグラスを持たせるまでの彼女の動きは、いつ見ても無駄がない。子育てをしている母はこうした飲み会が貴重なのだ、と言っているだけのことはある。
「じゃあ、とりあえず。おかえりってことで、乾杯」
野村の煮え切らない乾杯の音頭にも拘わらず、朔太郎は嬉しそうに見えた。帰って来る場所があると言うことは、彼にとって幸せなことなのだろう。少し羨ましくもあるが、知り得ない十二年の間、彼は異国の地にも居たのだ。もしかすると海が想像しているより、ずっと感慨深いものなのかも知れない。
「それで、ポルトガルはどうだったんだよ」
野村が大きな声でそう言い出したのは、乾杯から三十分過ぎた頃である。もう酔ったんですか、と朔太郎の呆れた声が聞こえた。
「野村さん。俺、スペインに行ってたって聞きませんでした?」
「そうだよ、野村くん。スペインだって、木下が怒ってたじゃない」
千佳子が急に話に海の名を上げたものだから、思わず吹き出しそうになった。別に怒ってないですよ、と言ったところで、これは意味のない事だということも分かっている。
「お二人がカナダやトルコだって言ってたのを、違ってましたねって話しただけですよね」
「そうだっけぇ。まぁまぁ、そうプンスカしないでよ。カナダもトルコもポルトガルも似たようなものじゃない。ねぇバイトくん」
適当な千佳子の言い草に、酔い始めた同僚は楽しそうに腹を抱えた。カナダとトルコという時点で、海には簡単に結び付かないほど遠さを感じるのだが。恐らく、そんなことはどうでもいいのだ。
「いや、違いますけどね。まだ、ポルトガルなら許せますけど。カナダやトルコは、全く違います」
朔太郎が、バッサリと切り捨てるように訂正をする。そんなに怒らなくたってねぇ、と笑う千佳子とは裏腹に、海はその光景を複雑な感情で見ていた。理由は簡単だ。優奈から聞いてしまった綺麗な彼女のことを、思い出してしまったからである。彼女がスペインの人だから、適当に言われたくなかったのではないか。そんなつまらない思い付きが、グルグルと過ると、心の安寧はどこかへ消えてしまう。海は一人、どうにもならない葛藤と闘っては、目の前の酒をただ煽った。
「うぅん、なんで……」
ふと隣の優奈から声が上がる。彼女は腕組みをし、何やら考え始めた。何に引っ掛かったのだろうか。何度も首を傾げた後で、急に海の方に居直った。何を言われるのだ、と緊張しながらゴクリと生唾を飲み込む。すると離れたところから、何か?と問う声が聞こえて来るのだ。その主は勿論、朔太郎である。
「あ、いや。美大を出て、建築に興味を持ったというのは教えてもらったんですけど。何でスペインだったのかなぁって」
「畑中。スペインてのは凄い建築が沢山あるのよ。ほら、ガウディって知ってるでしょ。サグラダファミリアの」
「あぁ、あれってスペインでしたっけ。そっか、そっか」
千佳子の呆れた声の説明に、優奈は納得したようだった。海も顕著な建造物を想像しては、なるほどな、とは思った。けれど心の隅っこには、それでは腑に落ちないものがある。
「地球儀をグルグルって回して、指で止めたところにでも行ったのかなって思いました」
酔ったふりをして、そう笑ってみる。「流石にそれはないわぁ」と千佳子が言えば、また皆はどっと笑った。ですよねぇ、と戯けた顔をして目を逸らすが、その視界の端では、朔太郎が苦笑いしていた。
意地悪だったな、と思う。朔太郎はそう言う性格なのだ。旅に出ようと決めても、場所にこだわりがない。目的は異国の建築を見ることだ。それならば面白い方がいい、と地球儀を勢いよく回して止める。その時人差し指がどこに乗っているか。彼はそれだけで、あっさりと行動が出来るような男なのだ。それがアフリカでも、フィンランドでも、きっとどこでもいい。
「海さん、珍しいですね。ちゃんと飲んでるなんて」
「たまにはね。何か今日は皆楽しそうだし、いいかなぁってさ」
「そうですよ。じゃあ、また乾杯しましょ」
「そうね。優奈はそれくらいにしておきなよ」
あぁ、嫌な女だ。朔太郎が今どんな顔をしているかは知らないが、わざとあんなことを言ったのである。腑に落ちなかったのではない。本当はただ、面白くなかったのだ。
スペインに行くのが運命だった。そんな風に言う彼を見たくなかったのだ。彼がそう言わなくても、誰かが口にしてしまうのも嫌だった。外国の彼女に会うことも運命だったと、言われているようなものだから。海と別れたことも、その為に必要なこと。そう言われてしまったら、大切にしていたあの時間の全てを、否定されてしまう気がした。
その彼女がスペイン人かどうかも、知らないくせに。
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