第五話 綺麗な彼女
「海さん、海さん」
「何、朝から。おはよう優奈。一体どうしたの」
「あ、おはようございます」
朝の挨拶も忘れ、優奈は海に向かって突進して来た。朔太郎が仕事を始める月曜である。あれから一週間。騒ついた心を鎮め、シミュレーションを繰り返した。それもこれも、今日から彼に会ってしまうからである。
「月曜の朝から元気ね。あ、かっこいい人でもいた?」
「違いますよ」
いつもと同じように切り出したが、優奈は呆れた顔で見返した。こっちは緊張しているのに。くだらない苛立ちを覚える。
「じゃあ何なの。優奈が、朝から興奮してくる話なんて」
「森本さんの所の、あのバイトくんですよ。えぇと、田中さん?」
「田中さんだね、どうしたの」
優奈にされた様に、海も呆れた顔で返したつもりだ。覚悟を決めて来たとは言え、急に出る話題に心臓がバクバクと大きな音を立て始めた。
「私、昨日見ちゃったんです。田中さんが彼女さんと歩いてる所。外国の綺麗なお姉さんと一緒で。声を掛けるわけにもいきませんし、一部始終観察しちゃいました」
あんなに大きな音を立てていたのに。心臓は急に静まり返った。
彼女。そんなもの居てもおかしくはない。二人は学生でもない。三十歳になったいい大人である。それなのに、突きつけられた現実に頭を殴られたような衝撃が走った。
シミュレーションをした様に、朔太郎は何の関係もない人。ただの仕事で出会った人。その感情を本気で持たねばならないということだ。
「へぇ。あ、あれじゃない?スペインの彼女」
「そっか。そうかもしれないですね。東京駅で、爽やかにハグと言うか抱き合って、笑顔で手を振ってて。素敵でした」
「へぇぇ、そっか」
多少わざとらしくなった気もしたが、そこそこ上手く出来たと思っている。仕事で会う人のプライベートなど、別に気にならない。そんな人たちが彼女がいようと、家族があろうと、仕事に支障がないからだ。彼も同じようにしていかなければ、と思った割に完全にダメージを受けている。スペインの彼女、なんて余裕ぶって言わなければ良かった。
抱き合って、手を振って。そうする朔太郎の顔が、急にチラつく。夢の中では穏やかに手を振っているだけの彼は、一体どんな顔をしていたのだろう。
「あれ。ショック受けました?田中さんみたいな人、タイプでしたっけ」
「ち、違うわよ。私は、ロマンスグレーの紳士がいいの」
年上である必要はないが、次の彼氏こそは紳士がいい。馬鹿な男はもういらないのだ。
「うんうん。そうですよ。本当に男運ないですからね。年上の方がいいですよ」
「こら。優奈も人の事笑えないからね」
「はぁい」
ふざけて笑い合いったが、胸はズキズキと疼いている。
朔太郎には、並んで歩く彼女が居た。そんなことごく自然なこと。ただ海の中の彼が、青春時代で止まっているだけ。空白の十二年がどう過ごしてきたのか考えてみたところで、やっぱり現実的ではなかったのだ。
彼はどう笑って、どう過ごしたのか。そんなもの知らない。子供がいたって可笑しくない。そんな年になったというのに、彼に当て嵌めたことは一度もなかった。時が止まっていたからではない。ただ、考えたくなかっただけだ。
これからは、目を背けてはいられない。ここにいる限り、きっと彼の恋愛事情など話題に上がってくるだろう。
「おはよう。木下、進捗どう?」
いつの間にか出社していた野村が二人に近づいて来ていた。カフェの骨組みは、そろそろリミットである。
「おはようございます。先週の森本さんとの話ですが、ラフ案を何点か挙げていただいてまして。すり合わせをしている様な状態ですね」
「ラフ見せて」
仕事の声が掛かれば、サッと切り替えをすることなどお手の物だ。野村は顎を触りながら、海が差し出したファイルに目を通す。
「あぁ。ふんふん。バイトくんは今日からだっけ?」
「田中さんですか?今日からですね」
「彼の意見はまだ入ってないから、多分またすぐに変わるよ。そうしたらまた見せてくれ」
「え?そうなんですか」
「あぁ、アイツはヒラメキ型でな。保守的な考えを直ぐに覆す。そういつ奴なんだ」
野村は嬉しそうだ。朔太郎のやることを理解しているのだろう。そして信頼をしているようでもあった。
「分かりました。あ、でも野村さん」
「ん、なんだ?」
「バイトくんではなく、田中さんですよ。ほら、バイトじゃなくなるんですし」
「あぁ、確かに。田中、な。田中」
そうですよ、とキビキビした顔を見せてみても、内心冷や冷やしている。変な顔をしていなかったか。大丈夫だろうか。不安は簡単には拭いされないが、上手くやれている、と念じるしかない。そもそも、彼に恋人がいたって、結婚していても良い。彼が幸せなら、それで良いのだから。
「ねぇ、優奈。ちょっといい?これなんだけど」
森本のラフ案を見ながら、優奈へ意見を問うた。カフェの入口についてである。二つの案で決めかねているのだ。
一つは入口を販売とカフェ、二つ設ける形。そうすることで、それぞれの目当てが明確になり一ヶ所に人が集中しない。 けれど、もう片方に視線が行きにくい。
もう一つは入口を一つにし、それぞれが目に付くようにする形。これに越したことはないのだが、一つしかない入口に混雑が発生しない配置を考えねばならない。
海が決め兼ねている理由は、先日話題に上げた屋内栽培の件である。これは入口から見えた方が良い。そうなると、それぞれのブースを分ける間仕切りにするか、それとも壁に付けて全体から見えるようにするか。それほど広くない空間を確実に二分してしまうのは、客足面での不安が拭えないのである。
「あぁ悩みどころですよね。屋内栽培をどこに置いたらいいか、が一番ですよね。一つにまとめるなら、きっと壁の方がいい。それだと店内が見渡せるのは利点になって。でもそうすると、空間を分けてしまうことでカフェが表からも見えなくなる」
「そうなんだよねぇ。両者の流れをもう少しシミュレート必要だね。森本さんに相談してみようかな」
「ですねぇ。あ、今日から田中さんもいますよ」
電話機の番号を押し始めた指が、優奈の言葉に少し震えた。その向こうに朔太郎がいる、と改めて実感させた。まぁ だからと言って、仕事を滞らせはしない。海は鳴り始めた発信音に沿って、呼吸を整える。
『はい、森本デザイン事務所です』
「お、おはようございます。ミノリの木下と申します。お世話になっております。森本さん、お手隙でしょうか」
この声は、まさか。初日の朝から電話に出るなんて、考えてもいなかった。出端を挫かれる。元々働いていたのだから、そんなに抵抗はないのか。そう気付いた時には、彼の声がまた聞こえ始めていた。
『……おはようございます。田中です。申し訳ございませんが、森本は本日、朝から現場に入っておりまして、戻りが午後になってしまうかと思います』
「そうですか。お忙しいですもんね」
『あの……。貴社の案件は、本日より私も手伝うように言われております。まだ確認をしている段階ですが、何か分かる範囲でしたらお答えできるかと思います』
「そ、そうですか。では、お願いしてもよろしいでしょうか」
『はい。少々お待ちいただけますか』
「はい。先日、森本さんにメールで送っていただいた、ラフ案を見ていただけると助かります」
朔太郎もこの案件を担当する。どうせ「ちょうど会ったから、あの案件から手伝って」とでも言われたのだろう。森本なら言いそうなことだ。
『お待たせしました。あぁ。これは、入口の件でしょうか』
「そうですね。両者ともに利点はあって、決め兼ねてしまいまして。ただ、早めに決めないと大きく左右しますよね。それで、ご相談を、と思っわけです」
『そうでしたか。えぇと、では木下さんはこれからお時間ありますか。恐らく、話をしながら詰めて行った方が早いと思うんですが』
反射的に「いや」と漏れた。まさか初回から、ミーティングを提案されるとは。ただ素直に言えば、早急に対応して貰えることは有り難い。相手が森本であれば、二つ返事で時間調整を始めるのに。朔太郎であることに、確実に戸惑っていた。これはビジネスだ、と海は自分に強く言い聞かせる。そういう付き合いを上手くしなければ、このプロジェクト全体にも影響が出てしまうのだから。
「時間ですか。えぇ、と。そうですね、今日ですと14時から予定がありまして。午前か若しくはその会議の後か、でしたら余裕がありますが」
『では、これからと言うのはいかがでしょう。私が伺おうと思いますが、こちらの方がやりやすいですか』
「これから、ですね。承知しました。場所はどちらでも構いませんよ。パソコンがあれば対応は出来ますし。えぇと、そちらの作業的には如何でしょうか」
森本なら「それじゃあ、今から行くね」と気軽にやって来る。それで対応が出来ることなど海にだって分かっているが、何分相手が相手。作業的に、と聞いたのは他でもない。気まずさのない方を選んで欲しかっただけである。
『そうですか。仕事的には、どちらでも大丈夫ですよ。仕事的には』
朔太郎は強調するように、仕事的には、と繰り返した。ビジネスに徹するという合図だろう。むずむずと引っ掛かるその言葉を、海は無意識に復唱していた。
『あ、ごめん。いや、あっと、すみません。では、私が伺いますね。野村さんたちにもお会いしたいですし』
「そうですか。では、野村にも話しておきますね。きっと喜ぶと思います。受付で木下を呼んでいただければ、お迎えにあがりますので、よろしくお願いします」
『わかりました。では、後ほど』
受話器を置くと同時に、汗が噴き出るのを感じる。初めからこれでは、頭が痛い。これから幾度と接しなければならない彼に、いずれは慣れるのだろうか。
「森本さんいらっしゃらなかったですか。今の田中さんでした?」
花枝さんではなさそうだったから、と続けた優奈は不思議そうに海を覗き込む。変な緊張を隠すように、「彼が出るとは思わなかったから驚いた」と誤魔化した。
「今日から居るってこと、一瞬忘れてたわ。一先ず今から、田中さんが代打でいらっしゃる事になったから、少し抜けるね」
了解です、と答えた後に、何故かフフーンとニヤケた。どう言う意味なのか。首を傾げたが、優奈は楽しそうに笑っている。
まだ何か言いたそうな彼女を見て見ぬ振りし、直ぐ野村に声を掛けた。報告、というよりも、出来れば同席して欲しいと念が込められている。まだ二人きりにされるのは、少々具合が悪い。
「野村さん。森本さんに再度相談をと思って連絡入れたのですが、いらっしゃらなくて。これから田中さんに、来社していただけるとになりました。野村さんにも久しぶりにお会いしたいし、と」
「お、分かった。そうかぁ。同席したいけどなぁ。時間が上手く合わねぇな。とりあえず木下対応しておいて。時間出来たら、顔出すから」
「はい。分かりました。では、第三会議室を使用しますので」
会議室予約をしながら答える。忙しく手を動かす野村は、ウンウンと頷いた。では、と穏やかな表情を作ったが、頬の動きがぎこちない気がしている。 忙しいのだから仕方がない。仕事である。そう平静を装う海には、右の手足が同時に前に出るような緊張が襲っていた。
自席に戻りパソコンを立ち上げ、朔太郎が来る前の資料の確認を始める。必要な物はコピーをし、会議室に運び入れた。空調や机の配置を確認し、どのくらい離れて座ろうか、と模索している。それから、ぐるりと一周見渡した部屋。ゴミが散らかっているわけでもない、ただの会議室である。それなのに匂いまで気にし始めたことにハッとする。それではまるで、『初めて部屋に彼氏を呼ぶ女の子』の気持ちではないか。
「しっかりしなきゃ」
独り、静かな部屋でパシンと頬を打った。
朔太郎には彼女がいるのだ。恐らくスペイン人の綺麗な彼女。それはもう、どうすることも出来ない。
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