第三話 初めまして、と言う再会
「森本さん、こんにちは」
「あぁ、木下さん。あとは……畑中さんかな?こんにちは」
ドアを開けながら挨拶をした海に、森本は顔をこちらに向け返事をする。後ろから付いて来た優奈を覗き込み、若手が来たねぇ、と微笑んだ。
優奈は、海の二歳下の二十八歳。新人の頃に指導係に就いてから、そのまま海と共に仕事をしてきた相棒。今はどんどん結婚していく周囲に押され、焦燥感を募らせる言葉をよく口にしている。ずっと代わり映えのしないボブで固定している海と違い、優奈は流行のものを抑えたキラキラした女の子だ。だから、恋愛がうまく行くのだってそう遠くはないだろう、と海は思っている。
「今日はご相談があって参りました」
「うんうん、どうしたのかな」
「あの例の件なんですが」
これまで悩みの種だった販売プランの進展について、海は資料を出して説明を始めた。カフェと販売スペースの間仕切りにこういった物を使えないか、と先程ミーティングで出した画像を彼に提示する。優奈もこの意見に賛同し、あれこれと彼女なりの意見を述べ、どうにか設置出来ないかと思惑しているようだった。
「と言うことは、販売の方には別途設けなくていいってことかな」
「そうですね。泥付きの野菜を置くつもりではいますが、収穫体験については常設では難しいと判断しました。遅くなって大変申し訳ないのですが」
「いいよ。うんうん。なるほどね。じゃあ、予算とそれが上手く見える方法を考えよう」
「はい。お願いします」
海と優奈は、同時に頭を下げた。二人にとって、初めて手掛ける大きな仕事である。多少の気合があるのは当然だ。顔を上げると二人目を合わせて、微かに口元を緩ませた。
「仲良しねぇ。お茶しながらやった方が、面白い案が出るかもよ」
事務所の奥から森本の妻――
「お二人は本当に、仲も良くて憧れます」
「あら。優奈ちゃん、いつもありがとう」
大体、ここへ移動すると雑談が多くなる。そこから良い意見も出るので、誰も止めはしない。ただ、ここ数年。優奈はこのフレーズを必ず言っている。
「また言ってる。優奈、毎回言ってるよ」
「海さんだってそう思いません?もう、どうやったら出会えるんですかねぇ」
「そうねぇ、私たちは同級生だからねぇ。出会いと分からないのよね。海ちゃんは、どう出会うの?今の子たちは、合コンとか?」
「私に聞いちゃいます?出会えてもロクなのいない奴ですよ」
コーヒーを一口含み、海は自虐的に笑い飛ばした。誰の見本にもならないような恋愛しか、ここ数年していないのだ。胸を張って言えることなど何もない。
「優奈ちゃんは、面食いだからねぇ。やっぱり背の高い人で、シュッとした感じのイケメンが好きなんでしょう?」
「そうですね。背が高い、はマストです。自分より大きい男性がいいんですよ」
優奈は、一七〇センチ近くある。いつもはローヒールのパンプスを履いて仕事しているが、デートにはもう少し可愛らしいものが履きたいらしい。ただそうすると、相手と同じくらいの背の高さになってしまう事が多いようだった。因みに、海は一五五センチと少し。だから、優奈の悩みに共感する事はない。
「あ、そう言えば。うちの野村がですね、森本さんに聞いて来い、と言っていたのですが」
「何何?野村くん、最近来ないからなぁ。聞いて来いなんて、偉そうに。自分で電話でもしてくればいいのに」
花枝と優奈は、確かに、とケラケラ笑う。こういう無邪気さが、他人から愛される術なのかもしれない、なんてくだらないことを思った。
「バイトくんが帰って来るって聞いたけど本当か、と」
「おぉ。野村くんにまで噂が広まったか。あ、さては千佳ちゃんだな」
森本の言う『千佳ちゃん』とは、野村とミーティグ後に盛り上がっていた林千佳子のことである。入社時から森本夫妻には世話になっているらしく、今でも仲が良いようだ。
「バイトね。来週からまた来るよ。野村くんにそう伝えてくれる」
「分かりました。そのバイトくんと言う方は、何か面白い方なんですか?」
イケメンですか?と食いついた優奈を脇目に、海は単に感じた疑問をぶつける。大学を卒業して、海外へ行った。アイデアが沢山出て来るような男。そこまでの情報しかなかったが、少し興味があった。
「大学の時に、バイトで雇った子なんだけど。確かに面白い子でね。枠にとらわれない、と言うか。斬新なことをしてくれる子でさ。卒業して、ポルトガルに行ったんだよね」
トルコでもカナダでもないのか。「二人とも不正解」と頭の中で大きな×印を付けた。
「そうそう。彼、美大生だったんだけどね。インテリアデザインとかに興味を持って、うちでバイトしてね。卒業して、そのまま旅に出たのよ」
「え?何でですか」
海が『美大生』と言うワードに引っかかっているうちに、優奈が疑問をぶつける。美大を出て旅に出たという流れが、可笑しな事なのかそうでないのか、海には分からない。
「いや、ここで働いてるうちにさ、建築も面白くなっちゃったんだよ。それで海外建築を見に行くって。好奇心旺盛な子でね。何年か前に連絡が着て、建築士の学校に行くって。二年通えば、二級は取れるからね。それで卒業したら働かせて欲しいってさ」
「え?それで、二級は取れたんですね?」
「そうなの。だから少しサポートにも入ってもらえると思うわ。あぁ、あなた。あの子、今日来るんじゃなかったかしら」
夫妻が見つめる先にあるカレンダーには、今日の日付に大きく丸がしてある。そうして下には、『バイトくん』とメモ書きがされていた。
「森本さんたちも、バイトくんって呼んでたんですか?」
「あぁそうなの。タナカ、って普通の名前なんだけどね。主人が『おい、バイト』って呼んでたものだから、いつの間にか皆んなそう呼ぶようになっちゃって」
「た……タナカさん、ですか」
「そうタナカ。何か変かしら」
「あっ、いや。バイトくんって言うから、何か難しい名前で呼びにくいのかと思ってたら、普通だったんで」
海は笑って必死に誤魔化した。美大生。好奇心が旺盛な、タナカ。そんなタナカなど、世の中に沢山いるに違いない。寧ろ彼であることの方が有り得ない話だ。それなのに、夢のせいもあるからか上手く処理が追い付いていかない。 そんな時、「こんちは」と若そうな声が、入り口の方から聞こえて来る。軽くて、柔らかい声だ。
「お、バイトか?奥だよ、入って来い」
「はぁい。お客さんですか?」
直ぐに胸が煩くなった。理由は一つ、この声である。夢の中では、「バイバイ」としか言わない声に似ていたのだ。そんなわけはない。そう偶然など起こらない。そう思い込ませようと試みるが、バクバクと大きな音を立てた心臓は、今にも飛び出しそうだった。
「ほら、バイトくん。ご挨拶なさいな。今、新店舗のご依頼を受けている会社の担当さんよ。ほら、野村くんのところの」
「あ、あぁ。今日は野村さんじゃないの?」
花枝の手招きに導かれて、パーテーションの向こうから現れた顔。夢の中のあの笑顔からは流石に年を取っていたが、それは紛れもなく海の心の中に棲みついている
「あ、えぇと。初めまして。田中朔太郎です。宜しくお願いします。すみません、まだ名刺がなくて」
「あ、いえ。は、初めまして……ミノリの木下海、と申します。よ、宜しくお願いします」
社会人になって早八年。何度も名刺を渡してきたが、こんなにも手が震えた事があったろうか。社会人一枚目の名刺ですら、こんなに震えていなかったように思う。隣で挨拶を始めた優奈に気付かれまいと、海は懸命に平静を装った。
上手く笑えているのだろうか。不安な気持ちを持って、海はおずおずと朔太郎を見つめる。目にかかる前髪、目尻の皺。あの日と同じ笑顔が、間違いなくそこにあった。
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