第四話 オトナの恋
「バイト、今日ミノリの現場行ってもらえる?内装と水回りの確認に野村くんたちが来るから」
「了解です」
恋なんて、すっかり自分の中から抜け落ちてしまっていた朔太郎は、あれから自分の気持ちをどう扱っていいのか戸惑っている。周りには悟られてはいけないし、彼女にも気付かれてはいけない。仕事をする上で、そこだけは気を付けようと思っている。まだ月曜日。週末はボォッとしていたら終わってしまった。もう、うかうかとはしていられない。
現場に着いたのは、約束より少し早かった。行ってしまえばやる事はあるのだけれど、もしかしたら彼女が来るかもしれない。コンビニのカップコーヒーを買い、会う前の一呼吸、と近くの植栽の縁に腰掛けた。
ふぅ、と溜息が零れていく。思春期の男子でもあるまいに、胸が苦しくて辛い。行動も起こせず、ただ勝手に胸を高鳴らせているだけだ。仕事だから、と言い聞かせては正当化している。あぁもしかしたら思春期の男子の方が、素直に行動をしているのかもしれない。
「お、バイト。休憩中?」
「あ、野村さん。いや、少し早く来ちゃったからお茶してました」
急にやって来た野村に苦笑いすると、その影から畑中が「こんにちは」と顔を出した。海が来るものだと思っていた朔太郎は、つい彼女の姿を探す。けれどどこにも、見当たらなかった。
「どうした?」
「いや。今日は内装確認なんで、木下さんもいらっしゃるのかと思ってました」
「あぁ、なんか風邪ひいたみたいでな。今日は休みだよ」
「そうなんですよ。なんか先週からおかしかったんですよね。珍しいです、海さんがお休みするまで体調崩すの。今日は代打で私が確認します」
ペコっと頭を下げた畑中は、何だか物言いたげな顔をしていた。
「じゃあ、早速始めましょうか」
立ち上がり、野村たちを誘いながら現場へ向かう。ちょっとした談笑をしながら歩いているが、頭の中では『海が風邪を引いた』と言う言葉が繰り返されている。
大丈夫だろうか。子供じゃないのだから、何とかしてはいるだろうが。それでも気に掛かるのは、それが恋だからなのだろうか。
「すみません、田中さん。ここ写真撮っても大丈夫ですか」
「はい、大丈夫ですよ」
野村が職人に質問をしている間に、畑中が声をかけて来た。細かく写真を撮り始めたところを見ると、後日海に確認をする為だろう。
「田中さん、あの」
「はい。なんでしょう」
「この間、海さんと何かありました?」
彼女はそっと身を寄せ、小声で問うた。野村に聞こえないように、配慮しているようだ。
「いや、特に何も、な、いですけど」
「そうですか。先週、海さんとランチしませんでした?その後、なんだか海さんにしては珍しいミスしたりして、ちょっとおかしかったんですよ。だから田中さんと何かあったのかと思っちゃいました」
「そうでしたか。でも、何もないですよ。こうして確認と意見を交換したまでです。その後ランチしましたけど、お野菜の話とかしかしてませんし……具合が悪いなら心配ですね」
上手く誤魔化されてくれないだろうか、と願った。
野菜以外の話が海を悩ませたのだ、と言うことは、朔太郎にも容易に分かる。変わらないね、と彼女が言ったのが嬉しくて、つい名前を呼んでしまった。彼女の性格を考えたら、気軽にそんな事をしたらいけなかったのだ。あの子は、変に難しく考えるから。
「ごめんなさい。変なこと聞いてしまって。あ、でも。もし、心配だったらメールとかしてあげてくださいね」
「あぁ、そうですね。でも僕、仕事の携帯番号しか知らないので。送っていいものですかね?」
「なるほど、確かにそうですね」
畑中はまた、変なことを言ってごめんなさい、と笑った。そうしてまた写真を撮り始めた彼女を漠然と眺めながら、『仕事の番号しか知らない』という事実が少しだけ、胸を締め付けた。
「今日は有難うございました」
「いや、忙しいところ悪かったな。森本さんにもよろしく言っといて。詳細はメールするって」
「わかりました。あ、木下さんに、お大事にとお伝えください」
「うん。多分明日には出てくると思うけど、ありがとうな」
「いえ。では、また何かあればご連絡ください」
二人に頭を下げ、朔太郎はまた溜息を吐いた。プライベートの番号を知らない。ただそれだけに、こんなにもショックを受けるなんて、思いもしなかったのだ。
朔太郎は、自分のスマートフォンに二つの番号を作り使用している。二台持つのが煩わしいから、そうしているのだ。仕事時には、プライベートと別の番号を提示しているから、勿論海だってその番号しか知らない。確か海は、会社から支給されたであろう折り畳みの携帯を使っていたはずだ。きっと、プライベートのスマートフォンくらいは持っている。それを聞こうとは思ったこともなかった。先週のランチの時に聞いておけば良かったのだ。試食会の連絡、とか理由を付ければ、何とでもなったろう。
「不便になったな」
また、あの頃を思い出していた。学生だったから、こんな風に公私を分ける必要もない。だから、番号を一つ聞けばそれで良かったのに。
事務所に戻り、海に今日の確認事項の詳細をメールすることにした。仕事のことならば、連絡をしてもいいはずだ。あくまで、畑中が確認したものの補足になる様な事を打ち込み、最後にこう付け加えた。
『風邪ひかれたと伺いましたが、お加減はいかがですか。お大事になさってください』
これが今出来る、全てだと思った。
結局、返事が送られて来たのは翌々日、水曜日のことだ。風邪が思う様に治らず、昨日も休んでしまった。そう書かれている。丁寧に、『ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません』と添えて。本当に風邪だったのか。本当は朔太郎のせいで、休暇を取ったのではないか。聞きたい事はたくさんあったが、そんな事を仕事用の連絡先に送るわけにはいかない。送っても気にならない人もいるだろうが、彼女はそこには含まれないからだ。
内装の件について、簡単な礼と質問を記載してあった。そう、それはあくまで仕事としてのメールなのである。
何だか自分の気持ちだけが空回りして、海とすれ違っている気がしてならない。仕事だ、と線を引く彼女が、正しいのも分かっている。分かっているのに、不満なのだ。自分の本音に気が付いてしまってから、朔太郎はその線を自分で上手く引く事が出来なくなるような気がしていた。
『先日お話しした試食会ですが、土曜日の十一時から当社のミーティングルームを予定しています。私事でお休みをいただいていて、連絡が遅くなり申し訳ありませんでした。急になってしまいましたので、都合が付かなければ構いません。連絡いただけると幸いです。』
メールには、最後にそう付け加えられていた。もしかしたら海は、断って欲しいと思っているのかも知れない。そう思いながらも、朔太郎は直ぐに返信を打った。
『土曜日でしたら、ご心配なさらずに。十一時少し前に貴社へ伺います。宜しくお願いします。楽しみにしていますね』
送信をタップしてしまえば、あとは明々後日彼女に会う事実が次第に現実になって行く。ミノリで会うのだ。仕事の顔をしていかねばならないだろう。これは恋だ、と自覚したところで、朔太郎も大人である。それくらいの分別は出来るが、不安なのは既に心が浮かれ始めていることだ。想像以上に大人になり切れていない自分に呆れつつ、今はその淡い揺らぎを楽しもうとしている。
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