第三話 本音と建前

 去って行く彼女の後姿を見ていて、朔太郎にはどこかもどかしい気持ちがあった。何とも表現の出来ないような。いや、だからかえって、何とか言い表したいような。そんな気持ちだ。今直ぐに抱きしめたいだとか、そんな性急なものではない。ただ少しだけ、振り向いて微笑んでくれないだろうか。そんな思いがあったのだ。


「ただいま」

「あら、おかえり。お昼食べてきたの?」

「はい。打ち合わせが終わって、ちょうどお昼だったので。木下さんと一緒に」


 書類整理をしていた花枝は、手を止め「コーヒー淹れるわね」と席を立った。普通のことを、ごく自然に言っただけなのに、海と一緒だったことを変に思われたのではないか、と冷や冷やする。鼻歌交じりに消えて行った花枝に安堵し、自分のデスクにミノリの図面とデッサン帳を広げた。海とカフェで話したインテリアのラフに、色付けをしようと思ったのである。


「海ちゃん、元気だった?最近こっちには来ないから」

「あぁそうですよね。元気でしたよ」


 花枝は、所内の事務を担当している。人手の足りない時は森本のアシスタントもしていたようだが、最近はこうして一人事務所にいることが多いのだ。


「少し悩んでいるようだったから、心配してたのよ」


 コーヒーを運んでんで来た花枝は、何故だか片笑みを浮かべた。悩んでいるようだった、と言うのはどれくらい前のことだろうか。そうなんですか、とコーヒーを受け取りながら、茶飲み話に聞きますよという体を作る。あまりこういう話は聞かないのだが、海のことはちょっと……知りたい。


「うん。バイトくんが戻る前は、難しい顔ばかりしていてね。まぁプライベートで辛い事があったから仕方なかったんだけど」

「確か歓迎会の時に話してましたよね。クリスマス、がどうのって」

「あら珍しい。よく覚えてたわね」


 花枝にそう言われると、「何だか二人に攻められてるようで可哀想だったから」と言い訳をして目を逸らした。勿論、本当は気になっていたのだ。同僚にも酷いと言われるクリスマスと言うものが。

 少し話しても大丈夫かしら、と花枝は隣の森本のデスクに腰掛ける。朔太郎は、どうぞ、と言いながらそちらへ居直った。 あくまで彼女が話したそうだから聞きますよ、と言う形である。


「あまり、他人のプライベートを噂話のように広めるのは、好きじゃないんだけど。バイトくんなら、力になってくれるかしら」


 困り顔で花枝が首を傾げた。余程心配なのだろうか。


「力になれるのかは、ちょっと分からないですけど」

「そうよね。……海ちゃん、三年くらいだったかしらね。お付き合いしている人がいたの」


 花枝曰く、その前までの彼氏は最悪だったらしい。そこに朔太郎は含まれているのだろうか、と背に汗が湧くような感覚を覚えたが、確認のしようがない。簡単に言えば、大概が浮気をされる。唯一その素振りがなかったのが、そのクリスマスの時の彼氏のようだ。


「彼へのクリスマスプレゼントを買いに出掛けたら、真正面から彼が若い女の子と歩いてきたんですって。海ちゃんには、同期と飲み会があるから会えないって言っておきながら」

「おぉ……なかなか、ヘビーですね」

「ショックだったと思うわ。あの頃は、何だか悲しそうな難しい顔ばかりしていてね。変だな、と思って飲みに誘ってみたら、そんな話が出てね」


 そうでしたか、と言うのがやっとだった。変な反応を見せれば、そこから何がバレるか分からない。


「でも、強い子ね。プレゼントを買う前で良かったって吐き捨ててやった、って笑ってたけど」


 花枝は思い出したのか、眉を落とし、口元を少し歪める。きっと海が、強がりだと思っているのだ。朔太郎も、そこに共感を覚えた。


「社会人になってからの話しか聞いた事なかったんだけどね。海ちゃん、その時にポロっと話したのよ。一番最初の彼の話」

「一番最初、ですか……」


 それはきっと、朔太郎のこと。彼女の『初めて』の何もかもは、確か朔太郎だったはずだ。そしてまた、朔太郎にとっても『初めて』は全て海だった。手を繋いだのも。キスをしたのも。それから……


「うん。本当は、彼の事がずっと忘れられないんだぁって。私は多分彼を忘れる為に新しい恋をしてるって」

「へ、へぇ。す……素敵な初恋だったんですかね」

「そうね。初恋、だったのよね、きっと」


 花枝は、妙に納得して見せた。初恋、と言う響きが、スッと入ったのだろう。カップを持ち上げながら、何度も頷いて見せた。


「あの時は珍しく酔ってね。そうなのねって聞いていたら、その彼のことぽつぽつと話したの。絵の上手い子で、いつも見てたんですって。絵を描く彼が綺麗なんだぁって。それはそれは、幸せそうな顔をして言っててね。あぁ良い恋だったのね、すごく印象に残ったの。きっとそれを、まだ越えられないままなんでしょうね」


 花枝の言葉を朔太郎は、どこか上の空で聞いていた。魔法みたい、とキラキラした顔で覗き込んでいた海を思い出したからである。

 この十二年。聞く限りでは、あの子はろくな恋をしていない。それでも前に進もうとして、躓き、何度もあの頃を思い描いた。それに比べて朔太郎の十二年など、最低と言う言葉以外では纏められそうにない。決定的な言葉は言わず、だらだらと体を重ねる。それを指摘されれば、そのまま会わなくなるだけ。長く一緒に居たのは、ベリータくらいである。そのベリータとも、確定的な関係性は作れていない。


「でね、最近はまた違う悩みがあるみたいでね。心配して聞いたんだけど、大丈夫って言うばかりなのよ、あの子。あの時の難しい顔とは違って、困った顔が近いかしらね。そんな顔してたから。少しは解決したのかしら」

「さ、あ、どうでしょうね。俺にそんな顔を出さないだけかもしれませんよ。彼女、真面目だから」


 あぁ、また言ってしまった。彼女を表現しようとすると、つい真面目だと言ってしまう。悪いことではないと今では思うけれども、きっと彼女は傷つくのだ。朔太郎はそう思っていた。


「そう。真面目なのよね。本当に、そんなに肩肘張らなくてもいいのにって思っちゃうくらい。窮屈じゃないのか心配になるのよ。だからね、その忘れられない初恋の時みたいに、幸せなら良いなって思ってね」

「そう、ですね」

「だから、何か困った事がありそうなら、話聞いてあげてね。同い年だって、盛り上がってたじゃない?あなた達」


 そう言うと花枝は、「余計なことまで言っちゃった。内緒ね」と人差し指を口元に当て、離れて行った。背中を伝う汗と心臓の音が、ただただ鬱陶しい。海の忘れられなかった初恋。それが今、ずっとループしている。

 ベリータのことを考えなければいけないのに、ふとすると海のことを考えている。流石に仕事はしっかりやったつもりではいるが、花枝の話は朔太郎に大きな衝撃を与えていた。お疲れ様でした、と事務所を出るまで半日、何とか考えないようにしたことが、帰路に着けば次第に大きく溢れ出したのだ。

 海の忘れられなかった初恋。それは朔太郎のことを指しているはずだ。日本に帰ることを考えるまで、何も考えていなかった朔太郎とは違う。その事実が、苦しめ、悩ませた。



 帰宅して缶ビールのプルトップを開けるまで、息をした気がしなかった。ソワソワする心と整理の付かない頭。それを片付けたくて、早足で喧騒を駆け抜けていた。

 昨日までは、懐かしい子に再会した、気持ちが強かったのかもしれない。でも、今日の昼間。朔太郎は、彼女ともう少し話したい、距離を縮めたいと確かに願った。そして、花枝の言う海の話。初めての彼が忘れられない。それを忘れるために、恋をしている。これが本当に朔太郎ならば、彼女は今でも……


「しーちゃん……」


呟いた彼女の名前が、騒がしいだけのテレビの音に掻き消される。


 花枝が思う様に、海には幸せになってもらいたい。その気持ちは確かだ。

 でもそれは、建前なのだろう。スペインでもよく言われた。そんな日本人しか分からないような事は要らない。お前は、お前自身は、一体どう考えているんだ、と。その言葉の裏にはきちんと感情があって、それがお前の気持ちなのだろう?と。


『その裏にある、お前の気持ちはどうなんだ』


 自分の気持ち。素直な気持ち。 海には、幸せになってもらいたい。そして……その隣で自分が笑っていたい。


「あ、れ?」


 特定の人を想って、悩んで、苦しくて。……あぁこの気持ちは、恋だ。

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