第二話 この気持ちは何なのか
「急にお誘いして、すみません」
近くのカフェへ入り、窓際の席に案内される。二人並んで歩いて来たが、現場でのやり取りの続きを延々と話していただけ。まだ昼前の店内はそこまで混んではおらず、先客の軽やかな笑い声が、向き合って座った二人の気不味い空気の間を流れた。
「あ、いえ。時間的に食べて戻りたかったので、ちょうど良かったです」
「ちょっと早かったんですけど……お腹空いちゃって」
「朝ごはん、いつも食べる暇なくて」と続いた言葉が、何だか言い訳にしか聞こえない。チラリと見た彼女は、特に何も気になっていないように見える。
「あ、一人暮らし……でしたっけ?」
「一人ですね。ホントは実家に帰ってもいいんだけど、うちの母は料理が下手でさ。ついでに、朝も苦手で……最悪ですね」
何故、ここまで緊張しているのだろう。海は朔太郎が『彼女』と認識している最後の子だ。つまり、あれから交際すること自体に煩わしさを覚えたのだから、少なくとも彼女が原因になっていた可能性だってある。それなのに、再会してから今まで、一度も嫌な女だと思ったことはない。海の様々な面に改めて触れ、悪い面だって思い出した。でもそんな負の感情は、湧いていないのだ。最近は寧ろふとした隙間に、彼女を思い出していることが多かった。
「朝が苦手なのは似てるんですね」
目の前で、彼女がふんわりと笑った。あの頃と変わっていないけれど、大人になった笑顔で。
店員の運んで来たメニューを覗き込んだ彼女。朔太郎も同じように見ようとしたが、距離の近さに戸惑い、少し離れたままそれを眺める。
「あぁ悩むなぁ。Cのグラタンもいいけど、やっぱりカルボナーかな。いや、ミートソースも捨て難い」
海は多分声に出ていることに、気が付いていない。それは昔と同じだ。パッと決められず、クルクル表情を変えるところも。
「あっ、すみません。つい」
そう頬を赤らめた彼女は、直ぐに下を向いた。少しモジモジしたように見え、その姿が制服を着ていた頃に重なる。
「変わらないね」
「え?」
「昔もそうやって、一人でどうしようかな、こっちがいいかな、って悩んでたよね」
仕事のかしこまった態度が軟化し、ちょっとだけ昔に戻れたような気がした。朔太郎のデッサンを覗き込んでいた、あの温かな日々に。
「そ、そうですね。田中さんは、何にされますか」
そんな風に思った朔太郎を、彼女がどう見たかは分からない。ただ瞬時に『田中さん』と呼び、ピシャリと線を引いた。これは仕事だ、と言わんばかりである。それは少しだけショックで、意識をして姿勢を正した。
「そうだなぁ。Aセットにしよう。今日は、トマト系の気分です」
「私はBセットにします」
彼女は、店員を呼び注文をする。昔から好きだった、カルボナーラを。
「食事が来る前に、ご相談したいんですけど大丈夫ですか」
海は直ぐに、仕事の話を展開した。ソファの配置。ブラインドの色。車椅子が入ってきた時の対応スペース。仕事には必要な話題ではあるが、あからさまに線引きをされると、何故だか胸が苦しかった。
その姿勢は、食事が運ばれてきても変わらなかった。カフェの話だけではなく、野村や千佳子の話もあったが、プライベートの話には触れない算段らしい。
「本当は、サラダバーとか入れたかったんですよね。ちょっと今回は、広さ的に無理でしたけど。次回は何とか入れたいなって思ってて」
「サラダバーかぁ。真骨頂みたいなものですもんね。あぁそう言えば僕、実はミノリさんの野菜、ちゃんと食べたこと無いんですよね」
セットに付けられた小さなサラダに手を伸ばすと、彼女は真剣にそう言う。無意識に食べる野菜と言うものを、いかに知ってもらうか、考えているようだった。その熱意につい聞き入り、フッと久しぶりに女性の話をきちんと聞いているな、と気付く。ベリータはいつも勝手に喋り続けるし、朔太郎が意見をしても彼女の耳には届かない。だからいつでも、聞いているようで聞いていないのだ。
カフェを作っていながら恥ずかしいですね、と朔太郎はまた頭を掻いた。
クライアントのことは出来るだけ知ろうと思っているが、ミノリには過去の甘えがあったのだろう。
他社よりもその努力が不足していることは否めない。
「あの。その……ご迷惑じゃなければ、試食会にいらっしゃいませんか」
彼女がそう言う。悩んでいるようにも見えるが、単にミノリの野菜を食べさせたいということだろう。その様は、クライアントの木下さん、だった。
「カフェで出すメニューなんですけどね。社内コンペになっていて、皆でレシピを出し合ってるんです。生野菜や果物も美味しいですけど、野菜を使ったデザートとかも色々出されて、面白いですよ」
「へぇ、そんなところに僕なんて行っても良いんですか」
「えぇ。皆、家族を呼んだり、友人を呼んだりするんです。森本さんにもお声掛けしたんですけど、別件があるとかで」
話しながら、少しだけ身を乗り出していた。何だか胸がザワザワする。さっきまでの苦しさとは違う、ということは分かっている。
「良いんですか。本当に行きますよ?」
確認しながら、あぁ嬉しいんだ、と思った。
仕事の姿しか見せない彼女が、誘ってくれた。
勿論、それは彼女にとっては仕事ではあるけれど。
「えぇどうぞ。それこそ、女性の意見だけでは偏りますし。一般男性の意見を聞けるのは、こちらも有難いです。野村さんたちだと、困ったら野菜炒めって言いますからね」
「うわぁ、言いそう」
目を合わせて笑った。こうして二人で笑って過ごしたのは、もう十年以上も昔のこと。分かっている。分かっているけれど、今からでも戻れるだろうか。それとも、今更と彼女は吐き捨てるだろうか。
「あのさ、これを聞いたら嫌かも知れないんだけど……いい?」
「何ですか?」
急に質問をした朔太郎に、海は警戒を織り交ぜたような難しい顔をしている。そんな難しいことを聞こうとしているわけではない。ただ、再会をして一つ、不思議に思っていることがあるのだ。
「いや、ずっと気になってたんだ。どうしてインテリアコーディネーターの資格、取ったんだろうって。それも夢のために必要だったの?」
やはり彼女は、警戒していたようだった。明らかに昔のことを思い出して聞いているのだ、仕方ない。ただあの頃から、海は野菜や植物関連の仕事がしたいと宣言していた。そうして、現にそれが叶っている。それなのに、インテリアなんて違うジャンル、どうして考えたのか。それが不思議だった。あまり畑違いの事をするのは、好きな子ではなかったから。
「夢ね、それは、昔のこと、だよね」
「あぁ、うん。昔だけどさ、野菜とかの仕事に就きたいって言ってたのを叶えてるじゃない?それとインテリアが結び付かなかったって言うか」
「うぅん、まぁ確かに」
海は、曇った顔をした。聞いてはいけない事だったのかもしれない。余計なことを言ってしまっただろうか。
「大学の時に、友達と色々な資格を取って。これだけじゃない。カラーコーディネーターとか、アロマの資格も取りました。まぁこの件で、初めて役に立ったんだけれど」
「たくさん取ったんだ。すごいね。やっぱり大学も、計画的に過ごしたんだね」
言ってしまってから、嫌な言い方だったろうかと焦る。けれど海は引っ掛かっていないようだ。
「計画的に、とは少し違う気がするな。友達との勢いってあるじゃないですか?そんな感じです。雑誌に載ってた資格が面白そう、とか。誰かがフラれたら1アップのために、とか。本当に勢い」
「フラれた、ね」
「あ……」
予想外の答えだったから、つい鸚鵡返ししてしまった。二人の関係性では、こうした話題は何よりも気まずい。聞き流せば良かったものを、と朔太郎は手に冷や汗をかいた。
タイミング良く、店員がデザートとコーヒーを運んで来る。二人共、顔を上げられずにいた様を変に思われたかも知れない。ばつが悪く、平然を装おうとした朔太郎の向かいで、海は何だかケーキの皿を覗き込んでいた。何一つ変わった物でもない。ホイップとアイスが添えられたチーズケーキである。
「あ、ごめんなさい。急に変ですね。私、ミントが好きで」
「へぇ。ミントですか」
「そうなんです。結構、要らないって言う人いますよね。男の人って、あまり好きじゃないですか」
既に見えているようで見ていなかった。ミントなんて今まで、何も考えずに避けていたような気がする。だからと言ってそうも言えず、好きとか嫌いとか考えたことないかも知れないですね、と曖昧に誤魔化した。
「実は私、甘い物が苦手なんですよ。だから食べられないけれど、デザート自体は好きなんです。だから、こうやってホイップが乗ってたりすると、ちょっと構えるんです。これは、甘いぞって」
「そんなに?」
「そう。それで口内が甘くなると、ミントと混ぜて食べてリセットするんです」
「あぁ、そう言う意味でミントって付いてるの?」
「いや、正解は分からないですけどね」
くだらない話の一つ、なのかも知れないが、朔太郎はまだ知らなかった海を見つけた気がした。微笑んだまま彼女は、朔太郎が注ぐミルクピッチャーをじっと見つめる。そうして「相変わらず、ですね」と言うのだ。
「え?」
「多めのミルクと砂糖少し」
朔太郎の手元を指差し、海はクスッと笑った。やっぱり覚えていたんだ。嬉しいような、恥ずかしいな、むず痒い感覚になる。
「やっぱり、忘れてなかったんだね」
そう言う朔太郎は、彼女もまたあの頃を忘れていなかったのだ、と実感していた。
「やっぱり、ちょっと気不味かったじゃない?でも覚えてくれてたんだなぁって、ちょっと嬉しかったんだよね」
あの時。ミノリで初めて二人で打ち合わせをした時のことだ。朔太郎のコーヒーに砂糖一つとミルク二つを添えて来た。それは素直に、嬉しかったのだ。
「私、そうしてた?ミルクと砂糖、籠ごと持って行かなかった?」
「え?あ、うん。ミルク二つと砂糖一つ。それだけが添えてあったよ」
「あぁ嘘……ちょっと、待って。恥ずかしい」
海は軽いパニックに陥ったように、顔を赤らめドギマギし始めた。視線が落ち着かず、一向にこちらは見ない。彼女は何も考えずにそれを用意したのだろう。それは、朔太郎には懐かしくて微笑ましいことだった。当然、嬉しい気持ちもある。
「なんかさ、こうしていると昔を思い出すね」
こうしていなくても思い出していたのに、あたかも今さっき思いました、とでも言うような涼しい顔をしてしまう。迷惑かも知れないのに、仕事以外の話を彼女としたいと思った。
また線を引き始めた海に、朔太郎は「しーちゃん」と呼びかけた。十二年ぶりに呼ぶ、その名前。何で、と言わんばかりの間が一瞬空き、彼女は頬から耳まで赤く染めた。
しーちゃん。朔太郎だけは、彼女をそう呼んでいた。海、と皆が呼ぶから、面白くなかったのだと思う。「海、だからSEAちゃん」と勝手に宣言して、呼び始めたんだった。あの頃を思い出せば、若かった自分の過去に苦笑いしか浮かばない。また、同じように呼んだら、少しこの距離が縮まるのだろうか。そんな事を、いつの間にか考えるようになっていた。
「田中さん、もうこんな時間。私、午後から打ち合わせなんですよ。準備もあるから、そろそろ出なきゃ」
懐かしいニックネームは、海をスルリと通り過ぎた。赤らんだ頬も、見間違いだったかのように、いつもの彼女の透き通るような白い肌に戻っている。
「本当だ。もうこんな時間。今日は、俺にご馳走させて貰えませんか。ほら、色々気付かせて貰えたので」
「いえいえ、そんな訳には。あ、じゃあ。千円から溢れた分だけ、奢ってもらおうかな」
はみ出た分など、ジュースを買う程の金額である。海らしいところに触れ、「分かりました。今度は、ちゃんとご馳走します」と微笑み返した。もう既に海は、『木下さん』にすっかり戻っている。ありがとう、とニッコリ微笑んだ海は、直ぐに朔太郎に背を向けた。振り返ることのない背中を、ただ見ている。
この気持ちは一体、何なのだろうか。
懐かしい思い出話がしたいだけなのか。
それとも……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます