おまけ
1 幸せのタイミングは
「理沙。遅くにごめんね。起きてた?」
「起きてるよ。どうした?」
こんな時間に珍しく、佐知からの電話。何事か、と聞き返してみたけれど、用件など聞かなくとも分かっている。佐知はこそこそと小声で、「いや、あのね」と話し始めるところを見ると、子供は寝たと言うことだろう。
「今日、だったよね?海の決めたリミットって」
「あぁ、うん。そうだよ」
「何か連絡着てる?何だか気になっちゃって」
私のところにも着てないよ、と返答する脇で、隼人はパチパチとキーボードを叩いている。ごめん、と口を動かせば、気にしないで、と彼も同じようにして見せた。
「海の事だから、二択だは思ってるんだけど。理沙はどっちだと思う?」
「二択?あぁ、上手くいったけど、遅い時間だから明日連絡しよう。上手くいかなかったから、まずはヤケ酒でもして、明日連絡しよう。ってこと?」
そこは長い付き合いである。あの子がどうやって知らせて来るかくらい、二人共理解しているつもりだ。
「そうそう。まずはあの子、一人で一度飲み込むじゃない。多分もう少し早い時間に良い結果が出てれば、連絡くれたろうけど」
佐知もまた、海の性格を読んで、そう思っている。私もそれには賛成だ。きっと海ならばそうするだろう。
「今回はどうだろうなぁ。私が見てた限りでは、上手くいくと思ってるんだけど」
「本当?あ、理沙。彼に会ったんだっけ?」
「会った、と言うか、寝てたからなぁ。海は自信なさそうだったし。何とも言えない」
そう。私が初めて会った朔太郎という彼は、本当によく眠っていた。あれは、海じゃなくとも困惑する。外見は、優しそうな印象を持ったが、どうだろう。ちゃんと起きて、話をしたら変わるのかしら?
「あぁ、そうだった。でもその後も、結局何もなかったのよね」
「そう。何だか楽しく過ごせたらしいけど、何も進展はなかったみたい」
「うんうん。そうかぁ。じれったいねぇ」
「今回は、本当にあの子、慎重だったのよね。だから海から動くのは、本当に無理だと思ってて。ほら、大切にして来た恋だから」
失うのは怖いよね、と佐知も同調する。
けれど私は言ったのだ。彼だけは傷付いてでも越えないといけないんじゃないか、と。大切にして来た恋だからこそ、次あるか分からないタイミングで、きちんとケリを付けておかないといけない。そうでなければ、あの子はきっと、延々と引き摺ってしまうから。
「そっか。じゃあ、どっちに転んでも受け止めないとね。明日、連絡くるかな」
「そうだね。必ず連絡はしてくると思う。海だから」
「だね」
こうやって話が纏まるのも、私たちが海の性格をきちんと知っているからだ。多分同じように佐知が悩んだとしても、私と海はこうやって共感が出来るだろう。もし今見えないところで変わってしまったとしても、大元はきっと変わらない。それは、私も。
「私、もう明日出られるように、旦那に頼んだからさ。早めにランチとかって落ち合っておかない?」
「あ、ホント?分かった。上手くいってればあれだけど、ダメだった時は自棄酒してるだろうから。とりあえず、ブッフェはないわね。カフェでいいかな。場所は送るから確認してくれる?」
「了解。よろしく。成功祈って。じゃあ、また明日」
「はぁい、おやすみ」
友人の恋が上手くいくかどうか。それだけで夫にそう頼み込んだ佐知を思うと、何だか海が少しだけ不憫。だってもう、良い大人。連絡だけでも良いものを。でも、私もそうしたい。今までの彼とは違うから。これは本当に大きな恋なのだ。
電話を終えると、隼人が「飲むでしょ?」とビールを差し出した。二人の時間が壊されたようで、寂しかったのだろうか。缶を受け取ると、珍しく隼人は私を優しく抱き締める。
「佐知さんだった?海さんのこと、皆本当に心配なんだね」
「そうなんだよね。あの子って、真面目に、いつも考え過ぎるんだけどさ。今回は、ちょっといつも以上だったから」
いつも以上に慎重で、臆病だった。そんな女心が隼人に分かるのだろうか。
そっかぁ、と言う隼人は、直ぐに私から体を離し、またパソコンと睨み合いを始める。寂しかった訳ではないのか。熱帯夜だというのに、私の方が隼人の熱が恋しい。間接照明に照らされた彼の顔を、私はじっと見つめていた。
「明日、佐知と昼間会うことにしたから。多分、海から連絡くるだろうから」
隼人は画面から目を離さずに、分かった、と言った。何かを検索しているような画面が、そこに映し出されている。
「隼人、それって仕事?」
「ん、あぁ。いや、これは」
何かを答えようとした彼の肩にそっと手を乗せる。隼人はパソコンを閉じると、そこに指を絡ませ、私の腰に手を回した。そして静かに始まった口付けは、即座に甘美なものとなり、夜の闇に深く潜っていった。
「佐知、こっち」
待ち合わせのカフェに、佐知がキョロキョロしながら入って来るのが見えた。大きく手を挙げて、彼女を呼び寄せる。
「理沙。お待たせ。素敵なところねぇ」
「でしょう。ここなら、少し早めにアルコールも始まるから、と思って」
なるほどね、と呟きながら席に着いた佐知は、早々と店員にダージリンを頼む。昔はコーヒーばかり飲んでいたけれど、カフェインの量を気にして紅茶にしたと言っていた。あれは出産の頃だったか。
「理沙と二人で会うのって久しぶりだね」
「そうね。海とはよく二人で飲みに行くけどねぇ」
「いいなぁ。なかなか夜は出られないし、羨ましいよ。相変わらずお洒落な所で飲むの?」
「それは、三人で給料日って理由で飲んでた頃の話じゃない。今は女二人で、赤提灯のカウンターよ」
佐知の知らない女二人の飲みの話をすれば、驚いた顔をする。彼女にとっては、赤提灯など縁遠いもののようだし、居酒屋と言うのがあまりピンと来ていないようにも見えた。だし巻きとか美味しいのよ、と言えば、急に興味を示し身を乗り出す。母になって物をはっきり言うようになった佐知だけれど、こういう癖のようなものは変わらずにいてくれたようだ。
「それにしても、連絡来ないね。上手くいったのかなぁ。自棄酒してまだ寝てるっていうのも否めないけど」
「そうね。まぁどっちにしても海なら連絡は来るでしょう。ほらあの時だって、ちゃんときたじゃない?」
「あぁ、順也くん?あれは、別れた後の方が大変だった」
そうだっけ、と佐知が応じるのも無理はない。彼女が、結婚をしたのは五年前。付き合うかどうか悩んだ時も、別れた後の慰めも、ほぼ私がしたのだから。それでも佐知の中に、順也くんと付き合うことに時間がかかったという事実は記憶されているようだ。
「それにしても、海って。どうしてこうも、男運がないんだろう」
「それは、ホント毎回思う。佐知が結婚する前の彼氏が、一番酷かった気がするけど。その他もあまり変わらないくらい、目も当てられない」
今思い出しても、酷い男ばかりだった。友人の元カレを悪く言うのはどうかとは思うが、それでもそう言わざるを得ないくらいである。
「大学生の時の彼も酷かったわよ。家に行ったら、知らない女が寝てたっていう。もう修羅場でしかない」
当時を思い出した佐知が、今でも笑い話に出来ないわ、と口元を歪めた。なかなか普通の人が体験しないような修羅場を、あの子は越えてきている。だから、もしも今回ダメだったとしても、多分どうにかはなるのだと思う。
「確かに。あの子、なんかそういうのを引いて来るのよね。今回はそんな事ないといいんだけど」
「今回は大丈夫じゃないかなって思うんだよね。ほら、事前準備をしているようなものだし。相手が分かった上で、どうするかって話でしょ?」
自分でそう言って笑ってしまった。事前準備って、と。
その時だ。二つの携帯にメッセージが届いたのは。 送信元は、確認せずとも明らか。 文面は相変わらず、申し訳なさそうに丁寧に伝えて来る。お騒がせしました、と。
「だそうですよ、理沙さん」
「良かったですね、佐知さん」
そうやって他人行儀に言って見せるけれど、佐知だって凄く嬉しそうだ。あんなに悩んで、苦しんだ海。独身の私たちとは立場が変わってしまった佐知も、同じように願っているのだ。海の幸せを。
二人顔を見合わせると、小さく笑い合ってから、同じように返した。
『今度こそ幸せに』
佐知と別れて、隼人に指定された店へ踏み入れる。隼人が指定したのは、滅多に来ない立ち飲みのイタリアンだった。
まだ海の余韻で幸せに浸っていた私は、隼人が来るのを待ちきれず、先に酒だけを頼む。 今日は少し早くから呑んでも、きっと神様は許してくれる。 そう勝手に、決めつけて。私は一人、乾杯をすることにしたのだ。
「理沙、お待たせ。って、もう呑んでるの?」
隼人が付いたのは、私がワインを一杯開け終える頃だった。
「ごめん、ごめん。だってもう嬉しくて。待てなかった。あぁでも、これはなかったことにして、次のグラスで乾杯しよう」
「なかったことにって」
そう隼人は笑いながら、ハイボールを二つ頼む。 今日は珍しいところをチョイスした、と話すと、時々こういうところもいいんじゃない、と。どうも、昨夜探していたのは、今夜飲む店を探していたようである。
「たまにはいいわね。こういうところも。いつもつい、赤提灯とか多いもんね」
「そうだねぇ。今日は海さんのこともあるだろうと思って、探したんだ」
凄く素直に、真っ直ぐな瞳で言うものだから、キュンとしてしまった。絶対に口には出さないが、年下の彼は、こういう演出を時折したがる。
「隼人、ありがとうね」
「ん、何。急に。とりあえず乾杯しないと」
そうやって彼は、ニコッと微笑む。態々してやった、という様子はない。本当に海のことを喜んでくれているようだった。
「理沙。海さん、良かったね」
「うん、本当に良かった。あの子って本当に、ロクでもない男のオンパレードだったから。今回は良いように転んでくれるように祈ってる」
そう言ったところで運ばれて来たハイボールを、私たちは小さくカチンと合わせた。 こうして私の友人のことも、一緒になって喜んでくれる隼人。 年下だからと、どこかで頼りないと思っていたけれど。 そんなことよりも話をきちんと聞いてくれて、時には怒ってもくれて、優しい。 そっちの方が、頼れるかどうかよりも大事なことのような気がした。
「あ、ねぇ。ここはローストビーフが美味しいんだって。口コミに書いてあったよ。ほら」
「ん、どれ?あ……本当。美味しいね。そう、ローストビーフって言えばね。この間海と佐知と三人でランチした時にさ……」
ローストビーフを口に運びながら、あの時のブッフェを思い出していた。何だか久しぶりで楽しくて、結局は美味しかったかどうかすら覚えていない。そんなことを思っていたら、隼人はニコニコして私を見ていた。ん?なに?と問いかけたが、やけに恥ずかしくて、真っ直ぐに瞳を見られなかった。
「理沙はさ、本当に海さんと佐知さんが好きだよね」
「ええ?あぁ。まぁそうね。あの子たちと過ごした時間って、やっぱり楽しくて仕方なかったのよ。佐知は今なかなか時間が合わなくなっちゃたけどさ」
「そっか。佐知さんは、なかなか時間が合わなくなっちゃった?」
「そうね。ほら、子供が出来てからは余計に。誘いにくくなったって言うのもあるけど。ほら海のとんでもない男たちの話をするために、旦那さんに早く帰って来てもらうのもね」
ペロッと、少し舌を出して笑った。 幸せな話だけならば、きっと休みの日のランチでいいのだ。 酒の勢いがなければ吐き出せないような何かばかりだった海の恋愛は、赤提灯がちょうど良い。
酒の勢いがなければ吐き出せないような何かばかりだった海の恋愛は、赤提灯がちょうど良い。
「海さんたちも、このまま結婚するのかなぁ」
「どうだろう。まぁゼロからじゃないから、もしかしたら、あっという間に結婚しちゃうのかもね」
「そっかぁ、うぅん。理沙、そうしたらさ。三人で子供連れてさ、ママランチするのもいいんじゃない?」
「は?どういうこと?三人で子連れって」
「三人で、だよ」
隼人は私を本当に穏やかな瞳で見つめて、耳元に口を寄せる。そうして周りに聞こえないような小さな声で、そっと呟いた。
「結婚しよう。きっと、幸せになれるよ。僕たち」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます