第六章

第一話 日曜日の朝

 よく寝たな、と開いていく視界に妙な違和感を感じた。頭上から当たるべき陽の光が、右側から射し込んでいるのだ。


「え……」


 横たわったまま呆然と天井を見る。カーテンの色、電気の形。何もかもが、朔太郎の家でないことを示していた。ここは、どこだ。


「おはよう、朔。大丈夫?気持ち悪かったりしない?」


 起き上がり室内を見渡していた朔太郎に、心配そうに海が覗き込んだ。ボーダーのシャツに黒のサロペット。明らかに昨日と違う服。 その状況に「え?どうして?」としか言えない。


「あぁ、やっぱり。覚えてないよね」


 そう言うと、海は何だか苦しそうな笑みを浮かべる。朔太郎は慌てて布団を捲り、自分の身なりを確認した。とりあえず、下着は着けている。この確認は女の子がするものかと更に慌てれば、「大丈夫。何もしてないわよ」と海はけらけらと腹を抱えた。


「あぁ、ごめん。朝まで付き合うって言ったのに」


「いいの。スッキリしたから」


 ありがとうございました、と恭しく頭を下げる海を見つめるが、朔太郎は頭の中で疑問符が踊っていた。


「あ、あの一体何が」

「そうねぇ、何もないわよ。多分想像しているようなことは、何も」

「いや、想像と言うか。その……」

「気にしないで。私はスッキリしたから」


 ありがとうございました、と恭しく頭を下げる海を見つめる。頭の中で疑問符が踊る朔太郎に、彼女は「事の顛末を聞く?」と言うので、是非に、とお願いした。


「大したことじゃないわよ。ほら、二軒目に行ったでしょう?そこで寝ちゃったの、朔」

「えぇ……」


 確かに昨日は結構飲んだ記憶はあった。寝不足なのに、緊張もして、するすると飲んでしまったのだ。いつもはこんなことないのに、色んなことが重なってしまったのだろう。


「何度も起こしたんだけどね。ちっとも起きなくてさ。家知らないし。置いて行くわけにもいかないし。花枝さんに聞くにも、ねぇ。遅い時間だったし、何て説明したら良いか分からなかったしね」


 だから仕方なく私の部屋に、と海はまた苦笑する。 彼女の友人が運んでくれたらしい。それも申し訳のない話である。


「ごめんね。でも、ありがとう。捨てていかないでくれて」

「何言ってるの。私、そこまで冷たくないよ」

「うん、知ってる。いつもちゃんと、周りの子達見て助けてたもんね」

「それは、昔の話。朔、どうする?シャワー浴びる?私の服着られるかなぁ」


 昔の話、そうピシャリと言い切り、海はクローゼットを開け服を探し始める。元カレの服、とかだろうか。聞ける自信はないけれど。ただ昨日までの海と違い、朔、と呼ぶことに抵抗はなくなったようだった。


「あ、あった。でも朔には小さいかな。パンツも新しいのあるから、使って」

「あぁ、うん。ありがとう」


 パンツ、と言われて固まる。誰かが履いたものだろうか。男物のパンツはそうそう持ってはいないだろう。


「何考えてんの。これは結婚式の二次会で、ビンゴで当たっちゃったやつ。キャラクター物で可愛いけど、流石にこのまま」


 海は付いたままのタグを、ひらひらと見せた。そうなんだ、と受け取る朔太郎は、明らかにホッとしている。白のTシャツは大きめサイズの女性物。それとスウェット素材のハーフパンツを手渡された。


「この天気なら直ぐに乾くだろうから、お風呂出て洗濯するね。そうしたら着て帰れるし。それと、何か食べられそう?」

「あぁ、うん。昨日は、眠かっただけだと思う。前の晩寝付けなくて」

「なら良かった。一昨日はちょっと蒸してたもんね。お風呂はそこだよ。タオルとかは適当に使ってね」


 冷蔵庫を開けながら、海は顎を触って何かを考えている。朝食のことだろうか。厚かましくシャワーを借りるのに、指差された方へ進む。何も考えていなかったが、起きて直ぐに返れば良かったのではないか。今更、そんな考えが浮かぶ。そして、大きな溜息が零れた。

 まだボォッとする頭で、冷たいシャワーを浴びる。どうしてこんなことになったのか。彼女との距離感は気を付けていたのに、つい酒を煽った前夜の自分を責めていた。今朝は、彼女が動揺していないのが救いだった。明るく、昔のように笑う海は、仕方なく朔太郎を連れて来たのだろうか。


「あっ」


 そんな事よりも。海は、どこで寝たのだ。……まさか。




「あぁ、やっぱり小さかったねハーフパンツ。ぱつぱつだね。まぁ……いっか。脱いだの洗濯しちゃうね、ちょっと待ってて」


 風呂から出た朔太郎と入れ違えに、海がパタパタと脱衣所に向かう。味噌汁だろうか。懐かしいような、いい匂いが鼻に届く。洗濯機のピッピッという電子音が漏れ聞こえてくると、朔太郎はハッとして部屋の中を見渡した。この部屋には、一人掛け用のアームチェアが二脚。横になれるようなソファはない。さっき寝ていたベッドが、急に生々しく見えた。


「ん、どうした?」

「あぁ、いや。しーちゃんはどこで寝たのかなと思って」


 言いながら恥ずかしくて、顔から火が出るかと思った。モジモジして思春期の学生か、なんて自分に突っ込みを入れてしまう位、情けなく下を向いている。


「私?そこだよ。テレビの前に布団敷いて」

「え?あ、そうなんだ」

「あぁ……今、ホッとしたでしょ」

「いや、そ、そう言うわけじゃ」


 海が意地悪な顔をして、朔太郎を小突いた。それは本当にあの頃のようで、キュッと胸に響くものがあった。


「ちょっと意地悪したね。ごめん、ごめん。流石に私も、一緒にベッドに寝れるほど、肝は座ってなかった。さ、ご飯食べよ。お口に合うかわかりませんが」


 海は優しい顔で、どうぞ、と椅子を引いた。二人用の小さな食卓。色んなことを考えてしまったが、促されるまま朔太郎は席に着く。ありがとう、と発した言葉が想像以上に小さくて、また恥ずかしくなった。

 彼女が運んで来たのは、二種類のおにぎりとしじみの味噌汁。それと、卵焼きとお浸しが付いた盆だった。よくイメージされるような、和食の朝ご飯である。


「美味しい。久しぶりだな、こんな朝ご飯食べるの」

「良かった。お魚とかなかったから、本当に簡単なものだけど」

「ううん。ありがとう。しじみのお味噌汁、美味しいね」

「飲み過ぎた時はいつも作るの。いつも、冷凍ストックしておいてね」


 彼女は汁椀に口を付け、小さく啜る。付き合っていたのは高校生の時だから、こうして迎える朝は初めてなのだな、と変に湧き出る実感。また味噌汁に口を付けると、何だか幸せな朝を迎えている気がした。


「いつも、そんなに飲むの?」

「いや、そんなことないよ。ただ、最近はちょっと多かったから。ほら、誰かさんのせいで」

「……ですよね」


 目を逸らした朔太郎を見て、海はキャッキャと笑った。夕べのことを全て覚えてはいないが、ぎくしゃくした関係が和らいでいるのは確かだ。いつもならビシッと線を引く彼女が、自らそれを取り払っているのだから。静かに玉子焼きを切り分ける海を見ながら、朔太郎は急に不安になった。本当は何かあったのだろうか。


「しーちゃん、あの……さ」

「ん?夕べの事まだ気にしてるの?別にいいのに」

「あぁ、うん。それは有難いんだけど、そうじゃなくて……」


 おにぎりを握って、朔太郎はもごもご話す。きちんと聞き取れないのではないかと言うくらい、しどろもどろだ。


「ん?本当に起きなかっただけよ。それだけ。心配するようなことはしてないってば」


 海の言う『心配するようなこと』とは、つまり大人の関係だろうか。一瞬想像しそうになって、朔太郎は大きく首を振った。だって、思い描こうとすれば出来てしまうのだから。


「私ね、起きない朔を見てたら、昔話してたこと思い出して。よく寝る家族なんだって、両親のこと呆れながら話してたよね。朔も同じだなって思って」


 懐かしそうに目を細めた海は、おにぎりを一口食べた。それから膳を見渡して、お漬物もあったら良かったな、なんて言うのである。やはり、仕事で今まで見た気不味さはなくなっているようだった。


「いや、あのさ。しーちゃん、俺なんかした?大丈夫?」

「どう言う意味?」

「あんなに……昔のこと話したりするの嫌がってたのに、と思って」


 おずおずと彼女を見る。海はキョトンとこちらを見て、あぁそのこと、と言う。落ち着いた視線は、真っ直ぐに朔太郎に向けられる。


「昨日、朔が言ったじゃない。これはプライベートな時間だって。納得出来たような、出来なかったような気はするけど。何より、ここ私の部屋だし。ここで田中さんって呼ぶ方が、かえって緊張するんだよ。それに夕べ呼んじゃったから、もう抵抗もなかったしね」


 海は清々しい顔でそう言うと、ペロッと小さく舌を出してお道化た。そっかぁ、なんて笑い返したけれど、朔太郎の中にはまだ気不味さが存在している。酔って告白したんじゃないか。本当はそれを心配していたのだ。今の彼女を見る限りでは、そう言う訳ではなさそうである。


 もしも、「好きだ」と言ってしまったら。彼女は一体どう思うのだろう。仕事、と線を引いてしまうだろうか、喜んでは、くれないだろうか。

 あの頃のような気持ちを思い出して、バレないように溜息を零した。高校生の時のように、嬉しい、とはにかんで。耳まで赤くしてくれたら、どれだけいいだろう。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る