第二話 洗濯物とコーヒー
「洗濯終わったみたい。干しちゃうね」
朝食を食べ終える頃、脱衣所の方から小さな電子音が聞こえた。洗濯機の終わりの音らしい。彼女は小走りに脱衣所へと向かう。その後ろ姿を、朔太郎はフワフワしながら眺めていた。
簡単に結わいた髪が揺れる。高校生の時には見ることがなかった家での彼女。それに今朝は触れているからだろうか。
「しーちゃん、待って。そ、それは大丈夫です……」
「え?何?」
海が手にしていたのは、朔太郎の下着である。何の抵抗もなく干そうとした彼女から、朔太郎は項垂れるように奪い取った。
「いや、もう見ちゃったし」
「いや、そうだけど……せめて自分で干すから」
「そう?じゃあ、ここに。私、Tシャツ干しちゃうね」
酷く冷静な彼女に、止めた自分が恥ずかしくなる。三十にもなって、こういう時に余裕を出せないものか。
「ここ、三階くらい?部屋も広いめだし、いい所だね」
「うん。三階だよ。築年数は結構いってるから、そんなに高くないし。駅までもそんなに遠くなくて、気に入ってるんだ」
「あの辺りは公園か何か?緑が多いね」
指差した先は、公園の大きな木が青々と茂っている。頷いた海は、時々散歩に行くと言う。そう言うことを考えて部屋を選ばなかった朔太郎は、素直に羨ましいと思った。それも大人になったと言うことだろうか。利便性以外にも、多少は目が行くようになったのだ。
「洗濯物干したし、散歩しに行きたい所だけど……この暑さじゃ、またシャワーだね」
「そうだね。というか、この格好じゃ行けない」
海は朔太郎の頭から足先まで指差し、「あぁ、確かに」と納得して見せた。エアコンの効いた部屋に戻ると、彼女は朝食の食器をキッチンに運び始める。片付けくらいは、と手を挙げたが、今日はおとなしくお客さんしてて、と言われ結局ソファへ腰を下ろした。
「あ、お茶淹れるね。コーヒーの方がいい?」
「ありがとう。コーヒーがいいかな、温かいやつ」
「はぁい」
海は夜間に手を伸ばし、サッと湯を沸かし始めた。その間に洗い物を済ませる流れは、合理的に『真面目』な彼女らしい。見渡した部屋は、ゴチャゴチャした女の子が好きそうな雑貨などはないシンプルさ。色味もアースカラーで纏めた落ち着いた部屋である。暫く外を眺めて、カチャカチャと食器の音が鳴るのを聞いていた。
「はい、コーヒー。お砂糖とかはもう入れたからね」
「ありがとう」
「エアコン付けると、温かい物飲みたくなるよね。お腹冷えちゃうから。でも消すと暑いし。難しい」
海も自分のカップを持って、もう一つのソファへ腰を下ろした。よくあぁして両手で持って缶コーヒーを飲んでたな、なんて思い出す。
「あぁ確かにそうだよね。女の子は特に。俺は元々冷たい飲み物が苦手なだけだけどさ」
「あ、そうだっけ?流石に忘れてた」
少し上を見上げた後に、静かに瞬きをする。その仕草がまるでスローモーションのようで、印象的だった。その時フッと気になったのが、彼女が飲んでいるカップの中身。それは朔太郎と同じような色をしている。
「しーちゃんもブラック以外飲むんだね」
「ん?あぁ、そうね。私、家ではこれなの。何だろうね。外にいる時はピシッとしていたいのかなぁ。家に帰ってくると、少し甘いのを飲んでホッとしたくなるんだよね」
「へぇ、そうなんだ」
まだ、知らないところがあった。いや、あって当然なのだけれど。そういう所を見つけるたびに、寂しいような嬉しいような気持ちが混ぜこぜになる。カップに付ける唇を無意識に見つめ、また一人で勝手に気不味くなった。 また珈琲を一口含むが、無言になると急にどうしたら良いのか分からなくなって気不味い。何を話したらいいか。そう悩んでいると視界の端に入ってくる、朔太郎の抜け殻のような形をしたベッド。それを意識すればするほど、波打つような心臓の音が存在を主張するのである。
「あ、そうだ。朔、休みなのに悪いんだけど。ちょっとこの意見聞いてもいい?」
彼女は仕事の鞄――今はもう見慣れたグレーの肩掛けトートからノートパソコンを取り出す。電源を入れると、直ぐに彼女は画面を指差した。まだ『仕事モード』に頭が切り替わらない朔太郎は、へ?と間抜けな声を出し、慌てて取り繕った。
「カフェテーブルだね。ソファにするかどうするか悩んでたけど、あれはどうなった?」
話す内容が仕事だとしても、間を埋めてくれる話題に感謝する。多少の気不味さは、こういう忙しく頭を働かせることで紛らわせるのが一番だ。それに、このまま二人きりでいたら、変な気が起こらないわけでもない。
「なるほどね、ありがとう。後は予算と相談してみるね。さて、洗濯物乾いたかな」
パタンとパソコンを閉じると、海は洗濯物の確認にベランダに出る。夏休みだろうか。子供たちの甲高い大きな声が、こちらまで届く。
「乾いたみたい。良かった。これだけは、暑い季節で良いことかもね。それ以外は嫌だけど」
「確かにそうだね。あ、お昼少し過ぎちゃったけど、何処かでランチしない?流石にお礼をさせて欲しいです」
断られるのではないか。そう頭は過ったが、海はそれを突っ撥ねはしなかった。
脱衣所を借り、着替える。バクバクと大きな音を立てたままの心臓に手を当て、緊張しているのは自分を感じる。けれど今日のあの子は、朔太郎を意識してはいない。その差異を感じてしまうと、何かもの悲しいものがあるのだ。ウダウダ考えていた朔太郎が着替え終えると、海は薄化粧を終えていた。とりあえず行こう、と彼女言うが、手をこちらへ伸ばすことはない。昔あんなに繋いでいた手がそこにあるのに、朔太郎からは触れる勇気もなかった。
そして、入口を開け外に出る。夏の高い陽が、こちらを睨みつけるように差し込んだ。
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