第四話 傷付いてでも
眠る朔太郎の顔を見ながら、海は今日一日を思い出している。ほぼ、前日の理沙の予想通りの一日。朔太郎が寝てしまったのは想定外だが、楽しむことは出来たのだ。『そろそろ着くよ』とメッセージが入ると、店主へ会計を頼む。朔太郎はまだ、夢の中である。
「朔、起きられる?大丈夫?」
「うん、ん……」
あぁ、やっぱりダメだ。そう言えば、昔よく言っていたんだ。とにかくよく寝る家族で、一度寝たらなかなか起きない、と。母親が夕食後に寝てしまい起きなかったから片付けをした、とか。父親は睡魔に直ぐ負けて、二十二時には寝てしまう、とか。両親の話しか覚えていなかったが、その遺伝子は間違いなく彼の中にも生きている。
「理沙、ごめん。隼人くんも、本当にごめんなさい」
「いいの、いいの」
理沙の脇で隼人は、大丈夫ですよ、と微笑んだ。少し勝気な理沙にずっと寄り添ってくれている、優しい彼。年下だから頼れない、と嘆いた事もあったけれど、こうして見ると二人のバランスはとても良さそうに見える。
「朔、帰ろう。歩ける?」
寝ぼけてモゴモゴと口を動かしている朔太郎を、隼人が車まで肩を抱き運んで行く。海は会計を済ませ、店主にまた謝罪した。「いいんだよ。また来てね」と優しく手を上げた姿に、何だが人心地が付く。また来ます、と頭を下げながら扉を閉め、静かに大きく息をついた。
「まぁ、とりあえず乗って」
「本当にありがとうね」
車内の二人に頭を下げ、後部座席に乗り込む。朔太郎は隣で、何やら夢を見ているようだった。車が静かに発進する。
「それで?」
理沙の尋問の開始は、この一言だけで十分だ。海は、試食会の後に起こった事を流れるように話した。インテリアショップ巡りをしたこと。その後バルで飲んでいたら、順也に会ったこと。それを彼が助けてくれたこと。そのお礼に、居酒屋で飲み直していたこと。
「順也くんって、本当にタイミング悪いね。あの男はまったく。それで、海。昨日話したこと、覚えてる?今日だけは楽しんできなさいって」
「覚えてるよ。試食会の後上手く誘えなかったんだけど、彼が待っててくれて。順也に会うまでは、二人で楽しめてたはず、だよ」
そう理沙へ話していて、海は実感していた。確かに今日は楽しかったのだ。順也のことも助けられて、彼も楽しそうに笑っていた。昔みたいに二人で笑えてるんだ、と、ずっと思っていたのだ。
「うん、うん。分かった。でさ、さっきサクって呼んでたじゃない?彼はどうだった?」
「あぁうん。それが。実はなかなか呼べなくて。彼は今日は良いんじゃないって言うんだけど、やっぱり気軽には……。呼んじゃったら、元に戻れない気がして。でも彼が難しく考えないでいいんじゃないかって」
「そうそう。私も賛成。プライベートなんだから仕事のまま、さん付けで呼ばなくていいと思う」
理沙の瞳は、楽しそうに爛々と輝いた。そう楽しみにされても、これ以上の出来事はないのだが。
「結局、朔って呼んだらね。今日だけはいいかなぁって思えるようになって……楽しく飲んでいました」
消え入るように尻すぼみになっていく言葉に、溜息を吐いた。隣で朔太郎は、幸せそうに眠っている。
「それってさ、もうただのデートじゃん。彼も楽しくて、飲み過ぎたんでしょう。それでも気の迷いだって疑ってる?」
「うぅん、疑ってるというよりはね。昔から簡単に、他人の懐に入ってくるような人で。いつも私の気持ちなんて考えていなかった。懐かしい人に会ったから、その時みたいに過ごして楽しもう。多分、そのくらいにしか考えていないと思う」
窓の外を流れていく街の灯りは、深夜でも煌びやかだ。この夜の中で、愛を告白する者もあれば、それを散らしていく者もあるのだろう。海は一体、どっちなのだろう。
「あの、さ……ごめん。一つ言ってもいい?」
ミラー越しに、隼人がこちらを覗き口を開いた。黙って聞いていた年下の男は、何か言いたいことが出来たようだ。理沙は「なに?」と顔を向ける。
「海さんが、難しく考えちゃう気持ちは分かるんだ。誰だって傷付きたくはないし、仕事の関係性もあるなら尚更だよね。でも、今話を聞いていてさ。彼はきっと、昔のようにまた呼んで欲しかったんだな、とも思った。懐かしむだけなら名字で呼ばれてたって、そこに壁があったって、話は進むんじゃないのかな……と思いました」
隼人はチラチラと理沙の反応を見ながら、だんだん言葉が小さくなった。
「隼人、それ正解かも。そうだよね。思い出話なら、さん付けで呼ばれたって話は進むもの。彼、やっぱり戻りたいんじゃない?そのきっかけが欲しかったとかさ」
「あぁ、そうかも知れないです。海さん、男だってどこか臆病なんですよ。確認をするように、きっかけが欲しくなるのは分かります」
「へぇそうなんだ……」
理沙は隣から、「隼人が男を代表して言うな」と小突いているが。なんだかんだ言って、この二人は仲が良い。こうして彼女の友人の話もきちんと聞いてくれるような男だ。隼人はきっとモテるだろうが、理沙との関係に安心しているようにも見える。彼は恐らく、理沙に甘えているのだ。
海の部屋に着いて、肩を貸す隼人に朔太郎がもたれ掛かる。釣られて足は動いているのは、まだ救いだ。
「ありがとう。本当に」
「いいの、いいの。海がずっと大事にして来た恋だもの。親友としては、応援したいじゃない」
有難いな、と思っていると、理沙はまだ何か言いたげにこちらを見る。そうして、これは私が出来る最後のお節介かも知れない、と口を開いた。海は小さく頷く。
「あのね、海。今日を一日延長しよう」
「ん、どういう意味?」
「今日だけは楽しみなさいって言ったじゃない?その今日を、明日まで延長するのよ。このまま普通に、朝彼が起きるじゃない。それで、何もなかったように彼を昔の名前で呼んで、明日も楽しむのよ。明日は日曜日だし、家にいるんだから完全にプライベートじゃない」
そうだけど、と口から出る言葉が不満気だ。それでも理沙は、話し続ける。
「隼人も言ったじゃない。昔のように呼んで欲しかった、きっかけが欲しかったんじゃないかって。明日、今日と同じように過ごして、何もなければそれまで。懐かしかっただけなんだなって、忘れるしかない。でも望めるものなら、まだ手を伸ばしてもいいんじゃない?」
理沙の言う事は間違っていない。何もなかったらそれまで。そう、その通りなのだ。
「……分からなくもないけど」
「この歳になって傷つくのは辛いよ。でもさ。海にとったら、彼だけは、傷付いてでも越えないといけないんじゃないかな。傷付いた時に、吹っ切れて、忘れていけるんだと思うの。もし彼とまた上手くいくなら、それで万々歳じゃない。彼の気持ちがどうだとか、そんなのは二の次三の次。何よりも、今海が彼を好きだって言う気持ちが一番なんだよ」
理沙の言葉に涙が出そうになる。海が朔太郎を好きだと思う気持ちが一番、か。じゃあね、と手を振って帰る二人の背を見送り、玄関の鍵を締める。その音が、静かな部屋に響いた。今この部屋には、朔太郎と海、二人きりだ。
朝、海が起きたベッドに、朔太郎が寝ている。その現実が、未だ半信半疑で不思議でならなかった。彼は信じられないことに目覚める気配がない。よく寝る遺伝子なんだな、と妙に感心してしまう。
「シャワー浴びるかな」
パジャマを抱え、洗面所へ入る。横目で確認しても、そこにある現実が嘘のようだった。
「現実、か」
風呂から出ても、当然ベッドには朔太郎がいる。やはりそれは不思議でしかなくて、ただ見つめてしまう。流石に一緒に眠るわけにはいかず、テレビの前の隙間に客用の布団を敷いた。静かな部屋には、朔太郎の寝息が彷徨っている。
意外と気持ちは、落ち着いていた。バクバクした心臓が煩い、とか。悶々と考え続けている、とか。昨日まであったザワザワした気持ちが、全くなかった。
彼だけは、傷付いてでも越えないといけない。その言葉が、海を落ち着けたのだ。
このまま仕事上の関係だけを続けるにしても、森本たちと同じような間柄を作れるとは思えない。微妙な間を保ったまま、付かず離れずを過ごすのだ。海の中には紛れもなく、恋愛感情が渦巻いているのだから。
朔は、どう思っているの?外国に彼女がいるんだよね?
そんなことを聞いてもいいのだろうか。理沙の言うように海の気持ちが一番だが、つい朔太郎の気持ちばかり考えてしまう。傷つくのは怖いけれど、それから逃げたら前へ進めない。今夜の理沙の言葉には、何も返す言葉がなかった。一人で考え込んだ所で、結局同じ。それは一人では何も変わらず、堂々巡りをしているだけなのだ。
『理沙、色々有難うね。私、やってみるよ。この恋にケリをつけない限り、確かに前に進めない。いつもウジウジして、ごめんね。隼人くんにもお礼言っておいてもらえる?有難うって』
理沙にそうメッセージを送ると、スヤスヤ眠る彼をまた見る。明日、朔太郎は何か覚えているだろうか。起きたら、どんな顔をするのだろうか。直ぐに返って来たメッセージを読み、海も目を閉じた。今夜はもうあれこれ考えるのは止めだ。
『海の幸せだけを祈ってる。頑張れ』
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