第六話 人生上手くいくばかりでない



「木下さん」


 千佳子と別れてから、ミノリの入口で十五分ほど待っただろうか。 誘ってみるよ、なんて気軽に宣言してみたが、海の性格を知っている以上、あれこれ理由を考えてしまった。結局あの子が納得出来そうな言い訳も見つからず、やって来た海に声を掛ける。平静を装っている朔太郎と驚いた顔の海が向かい合い、一瞬の間が空く。


「田中さん。お帰りになったんじゃ」

「帰ろうと思ったんだけど、この間、ちゃんとお礼しはぐってしまったから。この後、どうかなと思って。待ってました」


 海は困った顔のまま、えっと、と言いながら俯いた。それらしい理由はこれしかなく、こう言ったところで納得するわけでもないだろうことは分かっている。彼女がこれに乗って来るには、誘う言葉など一つしかないのだ。



「お礼なんて、本当にいいんです。仕事ですし、当たり前の意見の一つです」

「うん、そうだよね。そう言うと思った。正直に言うとさ、それも勿論あるんだけど仕事のことなんだ。ごめんね」


 正直になんて、一つも言っていないくせに。サラリと涼しい顔をして言う自分に、朔太郎は呆れていた。海はというと、『仕事』と言ったことで明らかな安堵の色を見せる。それは悲しいけれど、一目瞭然だった。


「カフェに入れるソファなんだけどね、実物見に行きませんか。この後ちょうど行こうて思ってたから、どうかなと思って。この間、座面の高さとか悩んでいたでしょう」


 また嘘を吐く。この後に行こう、だなんて思っていなかった。 それでも、時間が出来たら実物をと思ってはいたのだから、大きな嘘ではない。


「実物があるお店ご存知なんですか?それは少し行きたいです。あ、でもメジャーとか持って来てない」

「大丈夫。そのくらいは持参してますよ」


 良かった、と彼女が鈴のように笑うから、今度は朔太郎の方がホッとしていた。先ずは第一関門クリア、ということだろう。 じゃあ行こう、と声を掛ければ直ぐに、変に意識する心には別の緊張がやって来る。



 目的地まで、電車で三十分くらいか。その間、朔太郎はどう過ごすかまでは考えている。携帯で画像検索を掛け、先ずは一つのソファを彼女に見せた。


「こんなのはどうかな」

「素敵な色ですね。何色って言うんだろう。黄緑?」

「うぅん、何だろうな。萌葱色かなぁ。萌える、に葱って書く……」

「へぇ。でもいいですね。葱もきっと販売しますし。綺麗な色。物知りなんですね」

「あぁ、いや。僕、美大に行ってたので」


 褒められた照れ隠しにそう答えた。ただ、そんなことは海は知っていること。答え方を間違えたか、と思ったが、彼女は何も言わず、ぽかんとしたままこちらを見ていた。


「そうだった……やだ」


 まるで忘れられていたようだ。

 彼女はそれが余程面白かったのか、腹を抱えて笑うのだ。今度は朔太郎の方が目を丸くするが、結局は『知っていて当然だった』という事実に二人笑うだけ。そうなればもう、自ずと二人の距離は縮まっていった。

 店まで二人並んで歩き、目に入るカフェや試食会のメニューの話をしてみる。手を繋いだり、腕を絡めたりしていないだけで、それはまるでデートのようだ。 彼女がどう思っているのかは分からないが、少しでもあの頃を思い出せばいいのに、と思っていた。




「ふぅ、結構回りましたね」

「そうですね。気付いたら、夜になってました」

「ふふふ。本当。欲を出し過ぎちゃいました。すみません。遅くまで。お休みなのに、ご予定とか大丈夫でしたか」

「予定なんて何もないですよ」


 少し拗ねたように言えば、海はコロコロと笑うのだ。あれこれ回っているうちに、彼女が和らいできていたは分かっていた。 今ならまた、「コーヒーでも奢ってもらおうかな」と舌を出して戯けてくれるくらいだ。


「休みの日って言っても、映画を観に出かけるか、大体こうして仕事半分みたいに過ごすことばかりです。寧ろ、こちらこそお付き合いいただいて、すみません」

「いえいえ。誘っていただけて嬉しかったです。なかなか他の人と意見交換しながら見て回るってないですから」

「それならば、良かったです。じゃあ……と言いたいところなんですが、ちょっと疲れたしお腹も空いたので、ご飯かお酒か行きませんか」


 朔太郎は会話の流れで、サラッと誘う。それはもうスマートに言ったつもりだ。ご予定ありますか、と他人行儀に問い掛けると、彼女は躊躇った後に「予定ないです」と答える。ただ彼女は、その後の言葉を悩んでいるようだった。


「今日見た家具とか、インテリアとかの意見交換ってことでどうでしょう」


 彼女がこの誘いに乗りやすいよう、そう言い換えた。あくまで『仕事』であれば、海は一緒に居ることを拒まないと学習したのである。


「そ、そうですね。私も、田中さんのご意見はまだ聞きたいところです」

「じゃあ、折角だから行きましょう。バルでもいいかな?久しぶりに行きたいんだ」


 お任せします、と海は答えた。 顔は笑ってもいないけれど、強張ってもいない。 だから、心が少しだけ、弾む。



「ここでもいい?向こうにいた時はカフェとか、こういうバルによく行ってたんだ。日本に帰ってから、赤提灯にハマっちゃって。久しぶりに女の子と飲めるなら、って」


 海を連れてきたのは、スパニッシュバルと言うのか分からないけれど、向こうのバルを思わせるレストランだ。 オープンキッチンの前のカウンターに通されると、女の子、って歳じゃないですけどね」と海は笑った。


「それなら、俺も男子じゃないよね。千佳ちゃん、いつまで子供扱いするんだろう」

「千佳子さんは、無理ですよ。私も今でも新人扱いですもん」

「あぁ、じゃあ無理だね」


 スペイン料理だったからか、彼女は初めの注文を朔太郎に任せた。 オススメのものをお願いします、と。 一先ずつまみに、ピンチョスとタパスプレート。乾杯にはティントデベラーノを頼んだ。


「乾杯」


 運ばれてきたグラスを持ち上げる二人は、周りからどう見えるのだろうか。 朔太郎は、意識してしまう自分を隠そうと、あれこれ考えている。


「あ。これ、美味しいですね」


 彼女はグラスに口を付けると、そう朔太郎に投げかけた。 ティントデベラーノは、赤ワインを炭酸で割り、上にレモンが浮かべられている。 スッキリとして飲みやすいので、歩き疲れた後には良いと思ったのだ。


「そうなんだ。普通の赤ワインとか、サングリアなんかよりもさっぱり飲めるし、夏の赤ワインなんて言われるくらいの飲み物なんだよ。まぁ、スペインビールとも悩んだんだけどね」

「へぇ。何だか、本場の人って感じですね」


 ふふふ、と彼女は笑った。

 オープンテラスの方からは、既に出来上がったグループが大きな声を出し、店員に注意されている。 外はアスファルトに残った熱気が、まだ溢れているようだった。


「また昔の話って、怒られちゃうかもしれないけど。何かあの頃の記憶で止まってたから、お酒を飲んでるのが変な感じするんだよね」

「あ、それは私も思いました。田中さんの歓迎会の時に、うわぁビール飲んでるって、ちょっと一人で思ってました」


 海は拒絶しない。互いに同じ違和感を覚えていたのだ。何だかそれが、少しだけ可笑しい。


「本当。自分たちの年を考えたら、飲んでても普通なのにさ。何だか変な感じだよね」

「ね。あの頃の記憶しかなかったから、余計。制服を着てた朔が、急に大人になったぁって」


 そうだね、と返したけれど、胸が煩くなった。 彼女はまた気付いていない。 無意識に、『朔』と呼んでしまった事に。 あの時もそうだったんだ。朔太郎の歓迎会の時にも、彼女は『朔』と呼んだ。警戒しているけれど、酒が入ると少し緩むのだろう。


 歩き回った感想を言い合い始めると、それは途切れることなく続く。

 『田中さん』の意見はどうですか。 『田中さん』はこの色合いだと、どっちがいいと思いますか。 田中さん、田中さん。 海が再び、『朔』と呼ぶ事はなかった。

仕事の話をしているからだろうと思う。飲み進めても彼女の中で、仕事の付き合い、と言う線引きはされたまま。二人、隣に並んだ距離が埋まる事はない。

 これを恋だ、と自覚した時、直ぐに打ち明けてしまおうかとも考えた。けれども、仕事はまだこうして続く。 それまでは、やはりこの気持ちは隠すべきなのだろう。彼女が二人の間に引く線を、こちらから強引に消すことは出来ない。そうしてこの仕事をやり遂げたら、自分の素直な気持ちと向き合うのだ。海への気持ち。ベリータに対する思い、を。


「歓迎会の時にさ、木下さん言ったでしょ?地球儀グルグルグルって話。覚えてる?」

「あぁ、言っちゃったんですよね。本当にごめんなさい。きっとそうしたんだろうなぁって思ったら、つい口が緩んじゃって」


 海はグラスを傾けながら、小さな笑い声を漏らした。それはちょっと悪戯で、まるで少女のようだった。


「きっと俺のこと解ってるから言ったんだろうなって思ったけど、ちょっとびっくりしたんだよ。そうやって急にプライベートを投げ込んで来るとは思わなかったから」

「うん。そうだよね。何だろう、つい言いたくなっちゃった」

「言いたくなっちゃったって?」

「多分、あなたならこうしたでしょ?って。私は解ってるとか、そう言うんじゃなくてね。そうね、ただ正解って笑って欲しかったのかも」


 酒が進み言葉が砕けると共に、彼女の笑顔も柔らかくなった。仕事だと線引きされ、もどかしさのやり場に悩み、悶々としていた何かが少しだけ解放される。 あの頃のように笑う彼女。その中で今でも、朔太郎はただの取引先の人、でしかないのだろうか。




 ここに入って一時間ちょっと。お手洗い行ってくるね、と席を立った彼女が戻ったら、二軒目を誘ってみようか。いや、今日はこのまま別れるのがいいか。朔太郎は答えを決め兼ね、首を捻った。


「ん、それにしても遅いな」


 彼女が席を立って十分ほど経ったように思う。女性のレストルームは時間がかかるもの、とベリータがよく言っていた。だから、気にはしてなかったが、流石に遅い気がする。 倒れていてはいけないし、見に行ってもおかしくはないだろう。そうしてトイレの方へ足を向けた時、朔太郎の耳に男の声が飛び込んで来た。


「海、聞けって」

「だから、今聞いたじゃない。だいたい、今更何なのよ。あの時、言ったわよね。今なら言い訳は聞くって」

「言い訳何かじゃねぇよ」


 可愛らしいボブを乱しながら、海が誰かと揉めている。海、と呼び止める男に、カッとする彼女。朔太郎もまた、その男の態度に明らかに苛立ったのが分かった。


「今更話すことなんてない」


 そう言って振り向いた海の肩に、その男が手を伸ばす。考えるよりもカチンと来た朔太郎は、スッと海の手を引き寄せた。







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