第五話 あなたに伝えたいことを、一つだけ
一週間のプレオープンは、思った以上の成果を残した。初日に野菜を買ってくれた人が、リピートしてくれる。そんな風景も見られたのだ。そして、今日。待ちに待った開店の日である。
「いよいよだね、優奈」
「そうですね。何だか我が子を送り出す気分です」
「あぁ、分かる」
子供もいない、ましてや結婚もしていない二人が、そんな言葉に共感する。顔を合わせて笑うと、和やかな空気が流れた。開店一分前である。
「海さん、今晩は飲むんですか」
「ん?いや、分かんないけど。ほら千佳子さんのケアもね、あるし」
「そうですよね。本当にすみません。今日ダメで」
「いや、いいの。優奈は優奈のことがあるからね」
彼女は今日の打ち上げ後、彼のところへ行かねばならないらしい。彼女の幸せも、もうそこに来ているのかも知れないと思うと、文句など言えるわけもない。それに、そうしてくれた方が、海にとっても良いのである。今のところ、朔太郎からの連絡は何もない。きっと迎えるであろうこの恋の終わりは、一人の方が良いのだ。あと数時間で迎えるその時を、その心持でしか迎えられないことはちょっと情けない。けれど仕方ないのだ、と思える自分は晴れ晴れとしている。出来る限りのことはしたのだ、と思おうとしているのだと思う。いらっしゃいませ、と店頭から声が聞こえる。海と優奈は、「いらっしゃいませ」と声を重ねた。
「乾杯」
机のあちこちで、グラスを合わせる音がする。初日は想定以上の売り上げがあり、上の方の人たちも機嫌が良い。それもあるのだろう。発声と共に、何だか楽し気な笑い声が座敷に広がった。
海は嬉しそうな野村の横に座る朔太郎を、視界の隅に捉えた。いつもと同じ、目尻に皺を寄せて談笑する彼。時に野村が肩を組み、楽しそうに話しているのだ。あれは海の知らない二人のやり取りだろう。そんな朔太郎を見るのも、きっと今日が最後。そう思ったら、グラスを握り締めた手に力が入った。
「海さん、海さん」
ボォッとしていたのだろう。気付けば優奈が心配そうに覗き込んでいた。
「やだ、ごめん。乾杯」
「乾杯。流石に疲れましたよねぇ」
「そう、何だかホッとしちゃって」
「二店舗目があるといいですね。折角田中さんと仲良くなれましたし」
「いや、田中さんは関係ないでしょう。でも、二店舗目あるといいね。森本さんたちと仕事して、今までと違う世界を知って。何かあっという間だったな」
思いに耽ってビールを一口飲む。何があっという間だった、だ。その理由は仕事に夢中だったからではない。朔太郎がそこにいたから、である。
「で、本当のところは、どうなんですか。田中さんのこと」
「は?本当って何よ」
「だって、今見てたでしょう?良いのかなぁって思って。ほら、海さん男運ないけど、田中さんは良い人そうだし」
こら、と叱ってみるが、何だか悲しいだけである。勇気を振り絞ってあれを書いたのに、彼は気付かないのか。いや、気付いて無視しているのか。そのどちらにしても、彼と幸せな未来など思い描けないからだ。
「優奈、忘れたの?ほら、彼は外国人の彼女がいるんでしょ。自分で見たって騒いでたじゃない」
「へ?あぁそうでした」
「もう、自分で見たことなのに」
サラリと自分の口から出た事実に、冷汗が出る。忘れていたはずはないのに、いつの間にか気付かないように目を瞑っていた。朔太郎も、そんな素振りをしなかったから。外国人の彼女と抱き締め合っていたと言うことは事実なのに、まるで海の中に存在していなかった。あぁ、やっぱり。この恋は終わるのだ。
「海さん……あの」
「もう何。田中さんのことは、もういいでしょう?」
「いや、違う。千佳子さん。あれ、結構ペース早いですよ」
「え?あぁ……」
優奈も同じように、溜息を吐いて下を向いた。企画課としても、今日の門出は大きな一歩である。だから致し方ないのだが、既に陽気に出来上がったように見える彼女に、二人は真顔になっていた。
「タクシーに押し込むまで、一緒に居た方がいいですよね」
「いや、いいよ。大丈夫。歩いてはくれるだろうし、ちょっと絡まれるくらいだろうから」
「そうですか?もう本当にすみません」
優奈はすまなそうに首を垂れた。もう千佳子の世話など、お手の物である。彼女が管を巻いても、タクシーに押し込むくらいは何てことない。本当は朔太郎を呼び止めて伝えたい気持ちもあるが、それは叶わないことだと現実が海に吐き付けたようだった。視界の端で、朔太郎が笑っている。もう夢こそ見ないけれど、何度も触れたいと思った彼がそこにいるのだ。届かないこの距離を羨んでも仕方ない。海は目を瞑る。
「もう千佳子さん、飲み過ぎですよ。大丈夫ですか」
案の定、周りに絡み始めた千佳子。解散と共に、海は真っ先に彼女に手を伸ばした。優奈は何度も手を合わせて、ごめんなさい、と口をパクパクと動かしていた。
「大丈夫、大丈夫。今日はそんなに飲んでないわよ。でも、いつもごめんねぇ。何だか二次会行きはぐってない?」
「あぁ、それはいいんですよ。結構口実になって助かってます」
海がそう言うと、千佳子はホッとしたようだった。こうしている間に、終わりを迎えてしまった自分の恋。海はつい苦笑してしまう。 涙こそ出ないけれど、目の奥がじわっとして来たのが分かった。
「どうした?木下、何か辛いか?」
「やだ。何言ってるんですか。今日はめでたい日ですよ。辛いことなんて……ただ目にゴミが入っただけです」
「そう……」
今日の千佳子は、酔い加減も浅いようだった。海の心配をしてくるなんて、いつもでは考えられない。まだ飲む、と言い張る彼女をタクシーに押し込むまでが、海の仕事なのに。調子が狂う。
「無事に終わったわね」
「そうですね。初めは心配でしたけど、何とかなってホッとしてます」
「木下は良くやったわよ」
頑張ったね、と千佳子が、海の頭を撫でた。それはまるで子を褒めるような方法だったが、涙が出そうになる。優しさが身に染みるのか、それとももう一つの問題のせいなのか。
「いい?それだけ頑張ったんだから、きっと良いことあるわよ。大丈夫」
「良いこと、ですか」
「そうよ。神様は見てるのよ、ってね。じゃ、帰るわ」
「え?でも、タクシー」
「ちょっと歩いたから、電車でも帰れそう。悪かったわね。ありがとう」
手をヒラヒラさせて、千佳子は海から離れていく。慌てて「お疲れ様でした」と手を振り返す。そうやって彼女を見送りながら、また気付くのだ。あぁ終わったのだ、と。一人でそう気付いてしまえば、気持ちは沈んで行くばかりだ。もう用済みになったランチ会の招待状を、今から朔太郎が見るなんて到底思えない。用済みになったものなど、紙屑でしかない。今夜のうちに、あれも屑籠に投げられるのだろう。この想いのように。
海は鞄から携帯を取り出し、電源を落とした。打ち上げの解散まで、そう決めたこの恋のリミット。伝えたいことは一つだけだけれど、それはもう叶わない。もう、恋の終わりが来たのだ。
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