第四話 また現れた悪夢

 春の穏やかな陽に照らされ、彼はとても綺麗に笑っていた。卒業式。きっとこれで、もう二度と会う事はない。そう思えば、少し胸の奥がチクチクと痛んだ。


「……バイバイ」

「うん。元気でね。バイバイ、しーちゃん」


 振り返る事なく、彼が背を向けていなくなってしまう。どこの大学に進むのかは分かっているけれど、もう会うことはきっとない。

 さようなら、私の恋――




「あぁ……どうして」


 暫く見ていなかった夢。久しぶりに見た朝は、目はきちんと開いているのに、体がどこか重い。起き上がれないまま、軽く目と瞑った。夢の中でまで『しーちゃん』と呼んだ彼。今まで見た時は、そんな事言ってなかったと思うが。


「覚えてなかっただけかな……」


 力無い独り言が、宙に浮いている様で気持ち悪い。体中に違和感を覚え、海はフラフラ立ち上がって、体温計を脇に挟んだ。


「三八度か。流石に休もうかな」


 朔太郎とランチをしたのが木曜日。それから一日と半分。一心に仕事をこなし、気を緩めると直ぐに浮つく感情をたたき割った。そんな気持ち消えてしまえ、と。金曜は、デートに浮かれた優奈に「良かったじゃん」と茶化したりして上手くやり過ごした。

 ただし、それは自己診断であって、受け取る側の印象は別である。優奈には、言い方が冷たい、と叱られた。目の奥が笑っていなかったらしい。


 そうして何とか乗り切れば、週末は抜け殻のようであった。誰かに連絡する気にもなれず、テレビを付けても笑うこともなかった。唯一の救いは、天気が良かったことだけである。洗濯をして。布団を干して。掃除をして。雑念を取り払うかのように、暑くても細々と動いた。それがいけなかったのか。

 いざ休もうと決めても、今日の仕事の具合が気になりスケジュールを開く。体調不良ならば何も考えずに休めばいいものを、それが簡単に出来ないのが日本人の性――いや、海らしい。

 野村に連絡を入れると、当然の如く「無理はするな」と返ってくる。本当に当たり前の返答なのに、何だか泣きそうになった。あぁ弱っている。自分でそう実感したけれど、苦笑すら浮かばなかった。


 今日は内装の確認が入っている。最近は現場には朔太郎が来ることが多くなっていたから、丁度いい。代打は優奈だろうか。一応連絡を入れておこう。海はそうして、またベッドへ横たわった。


『おはよう。今日熱出たのでお休みします。カフェの内装確認、多分優奈に代打で行ってもらう事になると思うから、確認して欲しい箇所をメールしておくので、会社に着いたらチェックしてください。よろしく』


 手帳にメモしていた気になっていた点を、図面に赤を入れ送信する。本来は自分で確認したいところだが、仕方ない。休むなら優奈を信頼して任せればいいものを、それがどうにも出来ない。彼女を信頼していないのではなく、自分が気になるから、というだけ。これでも少しはましになった方なのだが。


『大丈夫ですか?到着したら確認しておきます。今日は大人しく寝ていてくださいよ』


 直ぐ返ってきたメッセージ。『ありがとう。よろしくね』と返すと、海はゆっくりと目を閉じた。




『……ちゃん、しーちゃん』


「ん……あぁ」


 また、見てしまった。再度、現れた悪夢。魔物とでも戦っている様な、振り払う事の出来ないモヤモヤが付き纏う。ヨロヨロと起き出し、冷蔵庫からミネラルウォーターを手に取った。キャップを捻り身体へ入っていく水分が、体内の葉脈を伝って先端まで行き渡るようだった。


「何か食べて薬飲もうかな」


 夢のせいか、熱のせいか。食欲はないが、明日は休みたくない。まだ昼過ぎの夏の陽は、高い場所で輝いている。海は冷蔵庫をまた開け睨めっこしたが、栄養価の高そうな物は入っていない。仕方なく粥でも炊くか、と土鍋を出し米を少量研ぎ始める。

あぁ、買い物にも行かないとな。何でもいいから、余計なことを考えていたかった。

 少量の米と多めの水。火にかけ、煮立ってきたら、かき混ぜて、弱火。慣れた工程をテキパキこなしていくが、動くたびに身体の節々が痛い。菜箸を挟んで蓋をすると、軽く伸びをした。ポキポキと鳴った関節。少しだけ楽になった気がしている。


「大体。朔が、急に昔みたいにするからいけないんだ」


 溢れ出したような言葉は、換気扇に吸い込まれていく。湯気を眺め、彼を責めるばかりが頭を過る。自分に反省すべき点はなかったのか。気が緩んで、変わらないね、と言ってしまった。本当はきっと、あれがいけなかった。あんなに厳重に鍵をかけて心の底に沈めたのに、簡単に浮上してくる想い。もしかしたら、もう二度と消えてくれないのかもしれない。

 気軽に飛び込んでくる、あの性格が嫌だった。誰にでもヘラヘラ笑った顔のまま、しーちゃんは特別だよ、と言ってくるのが嫌だった。でも、優しいあの笑顔や頭を撫ぜる大きな手も、大好きだったんだ。じゃあ、今は?本当に忘れられるの?

 

 十二年も会わず、どこでどうしているのかも、知らなかった人。その間、海だって成長したし、恋だってした。ただそれは、口は上手くて浮気もする、ロクでもない奴ばかりだったけれど。一時でも彼らを、好きだと想い愛した。勿論、そんな海を朔太郎は知らない。

 同じように海だって、彼がどう過ごしていたのかを知らない。それってもう殆ど、初めましてに毛が生えた程度のこと。そう思ったけれど、そんなわけもなく。初めましての人とは手を繋いだ事などない。キスも、その先もしているはずがないのだ。


「あぁ、こんな事考えてるから真面目だって笑われるんだろうな」


 ちょうど良い具合に煮え立った粥に塩を振り、静かに混ぜ合わせて茶碗に盛った。粥が炊けるまで三十分強。ただひたすら、朔太郎の事を考えていた。



『海、元気?最近連絡ないけど上手くやってる?』


 チビチビと熱い粥を口に入れた時、携帯にメッセージが着ているのに気付いた。理沙である。


『今日は、熱出して休んでる。上手くやってるのかは、わかんない。でも何とか仕事はしてるけど……大丈夫だったら、金曜また話聞いてくれない?』


 佐知と三人でランチに行ってから、理沙に愚痴をこぼすことがなくなった。悪いな、と思う気持ちもあったが、正直に言えば朔太郎とのことをどう話して良いのか分からなかったのだ。素直に事実を話せば良い。それには違いないが、自分の気持ちがどうなのかすら分からず、躊躇っていたのだと思う。


『やだ、大丈夫?急に暑くなったからね。身体がついていかなかったかな。金曜は大丈夫だけど、飲まない方がいいね』


 仕事中にも関わらず、理沙は直ぐに返信をくれる。また、心配掛けてしまった。彼女とのことは、いつも反省するばかりだ。


『いや、大丈夫。飲まないと話せないかも。何だか、どうしたらいいのか分からなくなっちゃって』


 話を聞いて欲しいが、具体的な目標があるわけでもない。ただパニックになる心を鎮めたいだけなのだろう。


『そう?分かった。時間は、仕事次第で。いつもの赤提灯ね』


 有難う、と返答して携帯を置く。小脇に添えた小梅干しを口に放り、コロコロと転がした。頭がボゥっとしている。 これはきっと、また現れた悪夢のせいだ。




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