5 これからの、僕たちは《後》

「しーちゃん……」


 ようやく見つけた電話番号も、全く繋がらない。電車は彼女を乗せて行ってしまった。明日、掛け直せばいいだろうか。


「ダメだ」


 今夜のうちに、海に伝えたいんだ。そう思い直したが、妙案が思い浮かぶわけでもない。


『あの辺は公園か何か?』


 そう言う自分の姿が思い出された。あれは、海の家で目覚めた日に、ベランダから見えた景色の話だ。そこでようやく、彼女の家を知っていることに気付く。そこへ行けば、今夜中にはしーちゃんに会えるだろう。でも、急に行ったりして、嫌がられないだろうか。いつからかこんなにも弱気になり、拒絶されることを恐れている。それだけ、自分にとって彼女が大切だと言うこと。


「躊躇ってどうする。……よし」


 次の電車に飛び乗り、彼女の家へ急いだ。ガタンゴトンと電車の立てる音に耳を傾ける。思い出すのは、一昔前の二人だ。きっと、またあんな風に笑える。そう淡く期待を持って。

 彼女の最寄り駅に着いて、先ずは記憶を呼び戻す。そこまで大きくない住宅街である。迷わないだろう、と安易に思っていたけれど、頭の中の情景を昼から夜へ転換するのは意外と手こずる。念のため、マップで大きな公園を探し、自分の記憶と擦り合わせた。


「合ってるな」


自分の記憶に感心しながらも、本当は海と歩いたからだと分かっていた。今歩いているこの景色は全て、彼女の向こう側に見えていた物。そう感じると急に気持ちが逸り、どんどん加速していく。

 ようやく着いた彼女の部屋。外から見上げるが、そこは暗いままだ。緊張しながら階段を上がる。インターホンへ伸ばした指は、微かに震えた。 無情にも音は、静寂の中に響くだけ。このまま帰ってこないかもしれない。 もう、すれ違ってしまったのかもしれない。 そんな不安が過る。

 それでも、そこを離れる気になれなかった。だから、灯りの下、もう少し待ってみようと決めた。マンション前の植え込みに腰掛け、とりあえずバッグから本を取り出す。気休めにそうしてみたけれど、ソワソワして先に進まない。


「あ、待って。しーちゃん」


一ページも捲らないまま、彼女の姿を見つけ、必死に呼び止めた。両手いっぱいに荷物を抱え、こちらには目もくれずに、マンションに入って行く。しーちゃん、と手を伸ばしたが、エレベーターの扉が無情にも閉まるところだった。

 彼女を追い掛けるように、階段を選んで駆け上がる。情けなく切れる息を無視するように上げた足が、思うように進まない。ようやく三階に着き、角を左に曲がる。そこに見えた彼女の後ろ姿までは、あと少し。


「しーちゃん。しーちゃん」


 必死に追い付いた彼女は、何度呼んでも振り返らない。バッグを漁り始めた彼女のボブが揺れ、耳にイヤフォンが捻じ込まれていることに気付く。 あった、と小さな声を漏らすと、海は溜息を吐いた。


「しーちゃん」


 少しずつ近付きそう言えば、海は大きく頭を振る。もう一歩進めて、しーちゃん、と呼び掛けた。静かに、海の顔がこちらに向く。それは、スローモーションのように。


「……え?」


 そう発した海は驚いたと言うよりも、ただ呆然としている。イヤフォンを外し、ここに立っているのが虚像でないことを、何度も頭が確認しているように見えた。海は表情を強張らせたまま、はらりと一粒の涙を落とした。


「しーちゃん。良かった。何度も電話したんだ」

「朔……」


もう言葉はいらなかった。嘘じゃないよね、と震える声で言う彼女を、強く抱き締めた。強く。もう離すまいと、強く――




 気付けば、あれから一年。俺たちは誰にも気付かれないように、上手く接して来たつもりだった。けれど、目の前に置かれた畑中からのメッセージ。困ったものね、と苦笑する海を見つめる。気を張っていない彼女は、本当に綺麗だ。立ち上がり、その後ろ姿をそっと抱いた。言う言葉は、もう決まっている。


「海。俺たちもさ、結婚しようか」

「え……いや」


 嫌だ、と言う意味ではないと捉えた。だって、海の心臓はバクバクと大きな音を立て、抱き締める腕に伝わって来るのだ。「まだ付き合って一年しか経ってないよ」と言う彼女の耳に口を寄せ、一年じゃないよ、と囁いた。


「昔のことも合わせたら、もっとだよ。それにそんな期間って重要?あっという間に結婚する人だっているじゃない」

「そう、だけど」

「何か不安?俺はね、今から知らないところが出て来たって、もう平気かなって思うんだ」


 ちょっと覗き込んだ彼女の顔は、何だか緊張して強張っている。まだ、海は答えをくれない。


「海……しーちゃんは、嫌だ?」


 彼女は何も言わないまま、頭をフルフルと降った。


「海が不安な時は、俺がこうして側にいるよ。大丈夫、きっと大丈夫だよ。だから俺と、結婚してください」

「……はい」


 抱き締めたままの俺の手に、海の右手が重なる。そうして目を合わせると、そっと唇を重ねた。


 俺たちは、きっと大丈夫だよ。若いときに感じた性格の違いは、何も解消していないけれど。互いに譲歩すること、互いを尊敬することも覚えたんだ。パスタがトマト味かクリーム味かで意見が分かれるなら、どっちも作ってみればいいよ。二人でキッチンに並んで、一緒に作ろう。どっちが先にお風呂に入るか揉めたら、じゃんけんでもすればいい。何なら一緒に入ったっていいんだ。


 あの頃の僕らと違う。大人になったんだ。失敗するかもしれない。躓くかもしれない。傷付くかもしれない。でも、それもいいんじゃないかな。岐路で二人の意見が割れた時は、その時は立ち止まって、二人で話し合おう。喧嘩をするなら、溜め込まないで言い合えばいいよ。それで、きちんと仲直りのキスをしよう。大丈夫。きっと、僕らは上手くいく。この先も、ずっと。

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だから、あなたとは上手くいかない。 小島のこ @noko_kojima

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